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報恩講 一枚法語

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 季節の移りかわりが、はっきりと感じられる頃になってきました。実りの秋の収穫が次から次へと終わっていく中に、心の喜びと共に、うつろになっていく心の淋しさを感じてきます。

   ものいえば 口びり淋し 秋の暮れ

 収穫の忙しさから解放されて、やっと心の落ち着きを取り戻してくるころ、各地で「報恩講さん」が勤まります。

 今から七百年昔、御開山であります親鸞聖人の三十三回忌の御法要が勤まっておりました折、本願寺の第三代の覚如上人が、式文として読まれたのが「報恩講式」であります。この時から報恩講が始まったともいわれております。

   ここに祖師聖人の化導によりて、法藏因位の本誓(本願)をきく、歓喜胸
   に満ち、渇仰肝に銘ず、しかれば則ち、報じても報ずべきは大悲の佛恩、
   謝しても謝すべきは、師長の遺徳なり

 私達は親鸞聖人の教え導きによって、阿彌陀如来の御本願を聞くことができます。如来は大悲心(カルナー)を聞くものを歓喜せしめてくださいます。

   如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
   師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし

 この恩徳讃は「(阿彌陀)如来大悲の恩」と「師主知識(親鸞聖人)の恩」に感謝する詩であります。

報恩講を勤めます意味に、大切なことが三つあります。

 (一)真宗興行の意味

親鸞聖人によって導いてくださった(如来の)御本願の真実のみ教えが報恩講を勤めることで、いっそう深まり、広がっていくべき大事なご縁であります。(如来の)お慈悲の教えにあって多くの苦しみ悩みに満ちた生活が、歓喜せしめられる感謝の人生へと転ぜられることであります。

  渋柿の しぶがそのまま 甘味かな

讃岐の正松同行が「まず自らが喜びを得ば、そのこぼれた喜びを拾って喜ぶ人生まれてくる」と言っております。報恩講の尊いご縁にあって、如来のご本願の喜びを得ることであります。親鸞聖人は、『遇ひ難くして今遇ふことを得たり。聞き難くして巳に聞くことを得たり』と、感動の心をもって述べておられます。

 (二)本願相応の意味

  本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

報恩講のご縁を通して、(阿彌陀)如来のご本願のおいわれを聞かせていただくのであります。《一念多念文意》(親鸞聖人八十五歳の作)に『「きく」といふは(阿彌陀如来)の本願をきゝて、うたがふこゝろなきを聞といふなり。

また 「きく」といふは信心をあらわす御のりなり。』とあり、聞即信といわれ て、聞くそのままということであります。彌陀の本願のいわれを聞きひらくとは、五劫(思惟)兆載永劫(修行)の永い御苦労は、誰のためでもない、 すべて私(親鸞)一人のためであります。

   覚めてより 後よりありと 思うなよ 夜よりまもる 母の手枕
この大悲のご本願に遇うことで、悲しみのままが、ご本願の功徳に満たされます。

 (三)滅後の利益の意味

親鸞聖人が弘長二年十一月二十八日(七二五年前)に御往生になってから各地からの参詣者が廟堂(墓)で涙を拭い、遺骨を拝しておられます。恩顔は煙となって消えていきますが、御真影を眼前に拝しながら在りし日を思い、音声は無常の風とともに消えてから久しくなっておりますが、真実の言葉を聞くことで在りし日を偲んでおります。

ご本願の功徳は、善知識を通して衆生の一人一人に、生きて働いてくださっていることを感じます。これはひとえに宗祖親鸞聖人が念佛一つに往生極楽の道を聞きひらいていかれたお陰であります。いまはただ『本願を信じて念佛もうす』より他に(地獄一定の)私が救われていく道はないのであります。

  南無阿弥陀佛 ナモアミダブツ これだけだよ
  これだけしかないんだよ これだけでいいんだよ
                        池山寿夫氏の詩より