「十 くよ くよ 「浅原 才市」」の版間の差分
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2016年10月4日 (火) 17:36時点における最新版
きみよむりよ十(じゅ)によらい なむふかしぎこを
そりゃそりゃ またでたでた くよくよが
くよくよよ でたけりゃでゑよ
でてもつまらん われがなをそい
わたしゃ しやわせ きほういたい
なんまんだぶつにしてもらい
ごをんうれしや なむあみだぶつ
(浅原 才市)
くよくよ
大正三年、才市六十五才のうたである。才市は、ある日のお内仏おつとめをすまして、これを書いたと思いたい。才市は殊勝な顔をして、おつとめをする我が身を、正信偈の最中に、ふと思った。自ら言うのである。才市よ、何という心で、お前は経をよむのか。勤行の心に、おおよそ遠い、お前のこころではないかと。
そして、又またそんなことを思う、と思う。くよくよとは、世事のくよくよばかりではない。仏前に、信者としての心を、あれこれ細工する、その心を、くよくよといっている。乱れ心を抑える、抑えようとする心を抑える。その心を、更に否定する。イタチゴッコという、あの遊びのように。一が刺した、二が刺した、三が刺した・・・八が刺してブンブンだ。あのブンブンは、手続きの限界であり、思考の限界である。
先手
才市は遂に、でてもつまらんという。自心のくよくよは、真の信仰では用いてはならぬのである。自心の思考、判断の無常を知っている才市は、われが遅いという。早いのは何か。仏だ。機法一体。才市はすでに南無の中にある。
(昭和三十六年七月)