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八十二 案ずるな 「浅原 才市」

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法悦百景 深川倫雄和上

八十一 行動の人 「足利 源左」
八十二 案ずるな 「浅原 才市」
八十三 仏恩深重 「親鸞聖人」
八十四 触光柔軟 「萬行寺 恒順」
八十五 おぼえている 「九条 武子」
八十六 自宗の安心 「満福寺 南渓」
八十七 忘れはてて 「親鸞聖人」
八十八 おぼつかない足 「九条 武子」
八十九 真の仏弟子 「善導大師」
九十 泥華一味 「浅原 才市」
九十一 睡眠章 「蓮如上人」
九十二 よろこびすでに近づけり 「覚信房」
九十三 表現の背後 「蓮如上人」
九十四 鍛えられざる精神 「無量寿経」
九十五 愚者の宗教 「鈴木 大拙」
九十六 念仏は感謝 「親鸞聖人」
九十七 冥から冥へ 「無量寿経」
九十八 今日の生 「九条 武子」
九十九 絶対絶命 「尾崎 秀実」
百 百代の過客 「松尾 芭蕉」
ウィキポータル 法悦百景

わしのこころは くるくるまわる
ごをのくるまに まわされて
まわらばまわれ りん十まで
これからさきに くるまなし
とめてもろたよ なむあみだぶつ
           (浅原 才市)

業火

 お念佛の信仰とは、一体いかなるものか。どうあるべきか。そりゃあ難信の法であると言われるので、わたしごとき者は、そう簡単にはっきりはせぬだろう。お聴聞をかさねないわけではない。どうもならないではないか。しずごころになりもせず、ごく明朗にもならぬ。才市さんのうたにこんなのがある。

しゃばの宿も また暮れた 浄土の宿と なるぞ嬉しき

 今日の一日もあれこれと心はめまぐるしくまわりまわりおわった。煩悩の火車ではある。お称名したとてとまりはしない。所詮これ、もの想い狂う生涯であるか。お聴聞をかさねたらすこしはましになるはずじゃと考えるのはあやまりであろうか。  

決定(けつじょう)

 まかせるということは、これから先について、あれこれと案じないということである。もって来た業がおわらねば、浄土には参られぬ。その業は、悪業のみ。承ると如来はこのどうにもならぬ業の中に住み込み給うて、もう苦しみの待ちかまえたかなたへの縁を、断ち給うという。案ずること勿れ。

(昭和四十二年七月)