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仏力を談ず (下)

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仏力を談ず 深川倫雄和上

仏力を談ず_(上)
仏力を談ず_(下)
仏力を談ず (講話)
改悔批判_(平成7年)
博多弁の妙好人
法話 義なきを義とす
ウィキポータル 深川倫雄

阿弥陀さま、阿弥陀さま

近頃、「親鸞」、「親鸞」とご開山さまを大事にしすぎる。親鸞と言うとけばそれがお念仏の信仰だと思っている人がある。

親鸞・親鸞あまり言わなくてもよろしい。もっと言わなければならないのは「阿弥陀さま、阿弥陀さま」ということ。

阿弥陀さまのお慈悲に救われて西方の極楽に参って仏になる。これが私どもの信仰なのです。

「此の御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩」であります。

大勢の「もの知り」達が親鸞・親鸞と呼び捨てにいたしまして、ご開山さまのことを書くけれども、一体その人達に阿弥陀さまがいるのかと聞きたい。
親鸞と書かないでもっと「弥陀」と書いてもらいたい。

勿論、ご開山さまを阿弥陀さまのお使いと頂くのがお念仏の頂き方でありますけれども、やはり親鸞聖人に救われるわけではありませんよ。

何故、親鸞・親鸞と言うのかといえば、結局阿弥陀さまを持たない。極楽を持たない。そして人間であり凡夫でありましたところの親鸞聖人のことならわかりますから、だから人間親鸞を大事にする。
人間親鸞を大事にするのなら、乃木大将や東郷元帥を大事にするのと全く変わりません。あるいは「あそこの先生は立派な人だ」というのと同じです。

私どもにはいろいろな趣味があります。説教中に眠るのを趣味にしておるのもおる。
絵を画く趣味、盆栽の趣味、剣道、柔道、水泳、奇妙きてれつな趣味もある。巾着(きんちゃく)掏摸(する)のが趣味の人もある。株をやるのが趣味の人もある。株ってそう儲かるものじゃないけど、日にち毎日電話とラジオを聞いて売買をして、そう儲かるものではないが楽しい。緊張してますからね。

ところが一つもないという人もあるかも知らんが、どなたにも共通した趣味が、人間の評判であります。

面白いですよ。趣味にはまあ、書道ならそれぞれ流儀があってグループを作りまして、そして景気づけや激励のために品評会がある。そしてあれがええ、これがええとやる。

人間の品評会がある。これだけは、どなたもするところの趣味であります。

「あの人は若いのに禿ちょるのお」
「ありゃ、おやじが禿ちょったから」
「ありゃ、禿ちゃあおらんが三十代で真っ白や」
「ありゃ、ばあちゃんがそうじゃった」

それくらいならまあええが、

「あそこのばあさんは、たいがいにゃ根性が悪い」などと、すぐ品評会がはじまる。

その一類として親鸞聖人という、人間親鸞の品評会をするならば少しも信仰ではない。

信仰というのは、阿弥陀さまを信じ、極楽を信じ、眼をつむったら西方のお浄土へ参るというのです。だから私どもは阿弥陀さまを持たねばなりません。極楽がなければなりません。

「あるような気がせん」

お前さんの気がしようがすまいが、弥陀は極楽を設けて待っていて下さるちゅうたら、「はあ、そうでございますか」と聞いておけばいいんです。


我田引水

宗教というものは我田引水をするのです。我田引水とは我が田に水を引くということ、理屈はなるべく我が田につれてくる、我がご法義へ。
それが宗教と言うものなんだ。公平にというが、そううまいこといかん。我々原初の人は、えこひいきのかたまり。ひいきというのは、どうしてもあるものです。

我田引水とは、同じ水路に甲の田と乙の田が二つ並んでいる。水が多い時は両方の田の水口から水が入る。

しかし水争いの時はどうするかというと、甲なら甲が夜なかに自分の田だけに水が入るように堰をする。
すると一方はよく入るが堰の下の乙の田には全く水が入らない。朝、乙が水回りをしていてそれをみつける。

「これは何ちゅうことか」と、甲の田の水口を閉じて、自分の水口の下に堰を作って我が田に水を引く。

そうすると、今度は甲が「お前、何ちゅうことをするか、公平に水を取らにゃあ」という。

その時乙が言う。「何を言うか。お前の田には、稲はできておらんじゃあないか。おれの田には稲がふさふさと出来ておる。お前の方は稗がふさふさ、一坪に二株くらい稲があって、他はみな稗。そんな怠け者の田に、立派な田と同じ水をなんでならねばならんのか。おれの田は大変上等だから水を取る。お前のような怠け者の田に水をやることはないぞ。」

これが我田引水。

大無量寿経は立派な田だ。究極の目的を果たすことのできない、お証(さと)りに至ることのできない宗教に理屈の水をやることはいらん。そういう信念。

お三部経の宗教は第一等の宗教であるという信念のもとに、ありとあらゆる理屈をもってくる。だから我田引水をするのです。

それを「公平にみたら、我田引水をしている」と、宗教学ではよく言わない。宗教学というのは色々な宗教の教義を勉強して較べていろいろ言う。

私達のはそうではない。これ一つ。「誓願一仏乗」(親鸞聖人『教行信証』)。本願の道唯一つ、他は皆まちがい。そういうお師匠さんの見開いた三部経の宗教。

そうして聞かせて頂けば、三部経の宗教が、一つの教えとしてあるのではなくて、それが世界の事実なんだ。阿弥陀さまのご法義がこの世の事実なんだ。だから我田引水をする 。

法華経が出世本懐というけれども、「霊山(りょうぜん)法華の会座(えざ)を没して王宮に降臨したもう」て説かれた阿弥陀さまご法義。事は急を要したご法義、法華経は二の次でよかった教えだと、出世本懐の理屈はこっちへもってくる。こっちが出世本懐なんです。


柿羊羹の中身は皆柿羊羹

柿羊羹

私の子供が、「お父ちゃんバカでよ」というんですよ。

「なしてや」

「お父ちゃん、お説教の時『柿羊羹の中身は皆柿羊羹』ちゅうよね」

「おお、言うよ」

「あたりまえじゃないか」

「あたりまえじゃから、いいじゃあないか」

「そんなら柿羊羹でなくてもいいじゃあないか」

「何ならいい」

「蒲鉾でもいいじゃないか。蒲鉾の中身は皆蒲鉾ちゅうて説教しても同じじゃあないか」

「違いますよ。蒲鉾買ったら板がついてきますよ」

柿羊羹の中身は皆柿羊羹。阿弥陀さまの中身は皆私。

阿弥陀さまの一部が私で、他は何かというのではない。五劫兆載永劫(ごこうちょうさいようごう)のご苦労も、「四十八願の一々の願に言(のた)わく、若我成仏十方衆生」(善導大師『観経疏』)、阿弥陀さまは端から端まで私の事で一杯です。

破邪と顕正

破邪というのは「いけません」という言葉。顕正というのは「こうです」という言葉。破邪がマイナスなら顕正はプラスのいい方です。 これは人格に係わることですが、私どもはなるべく「いけません」という言い方をしないように心掛けた方がいいですよ。

お坊さん方が、
「あなたがた、こういうお聴聞しておりゃしませんか、間違いですよ」と、たびたび言います。これはあまり誉めたことではありません。

「阿弥陀さまのご法義は、お念仏はこうですよ、こうですよ」と、お説教を終って知らん顔しとけばいいんです。聞き違おうが、違うまいが聞く者の勝手です。

それをお坊さんが、
「ひょっとすると間違うとりはすまいか、聞き間違うた者がおるだろう」
「いけません」と、こう言うんです。ちょっと過ぎたことです。ことに私どものような田舎のお坊さんは、こんな破邪はやらんがええと、近頃、お坊さんの勉強会なんぞで言うております。

ところが次第相承(しだいそうじょう)の善知識(ぜんぢしき)さまは、教の位にいなさる。教える位にいらっしゃるから、「いけません」というお言葉もあります。

あのね、私どもみんな心もちが教の位であります。子供育てたからね。子供を育てる、みな育てる。子供を育てるちゅうとねえ、

「左手で食べちゃあ、いけません」
「あぐらをくんでは、いけません」
「こぼしちゃあ、いけません」と、どれ程「いけません」を言うてきたでしょうかね。

「座っておたべ」、「丁寧にお持ち」と言えばプラスなんです。

「いけません」というのがマイナスの意味なんです。しかし、どうしてもそう言わなければならんことありましてね。

障子を破ったら、「障子を貼りましょう」とは言われません。「障子を破るな」と言わにゃ、しようがないから、次第に頭がそうなった。教えの頭になってしまった。だからお説教も、教えの頭になりがちになります。

私どもは三部経の中、ことに阿弥陀さまのことをお釈迦さまが説いてくださった、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)の一段を拝読しますと、一ヶ所も「これはいけません」という処はないんです。

「あのなあ、法蔵菩薩さまがなあ、ご苦労なさって四十八願建ててくださって、お浄土こさえて待っていてくださると、聞く一つで参らせていただくんだよ」とね。それも生れて初めて聞いたんでしょ。お釈迦さまがお浄土からおいでて、はじめて阿弥陀さまのお説教なさったんですから、阿難その他も初めて聞いたんですよ。

全部「阿弥陀さまはなあ」とプラス、顕正。「こうです。こうです。」という言い方。

後でだんだん慣れてきたら、教でおっしゃる。お釈迦さまは、まず阿弥陀さまのことをお話しになる。それが終ってご自分のお説教を少しなさるときには、教の位であります。だから、「お説教はしっかり聞かねばなりません。忘れちゃいけません」と、「謙敬聞奉行 踊躍大歓喜 驕慢弊懈怠 難以信此法」「聞法能不忘」とお戒めになるのは、教の位のお話しです。

だいたいこの世の中は、教のいい方です。というのが一番よくわかるのは教育。教育と熟しますね。

だからお父さん、お母さん、学校の先生が「いけません」が多いのです。

私ども時々、のみ屋に行くけれども、のみ屋のママさんはあまり「いけません」とは言いませんよ。あまり「いけません。いけません」と言ってると客がこなくなると知っておるんです。

客ちゅうものは、「いけません」と、うるさい処には行きたくないんです。阿弥陀さまの客、凡夫も「いけません」とうるさい処には近づかんということをご存知だから、おっしゃらん。

それだけではすまないと思われて、お釈迦さまが教の位としてお出ましなされ、ちょびっとご意見をくらわされるわけです。

阿弥陀さまのご法義は、決して教育の論理ではない。違うんです。お救いの論理です。叱らないで救うのであります。

今月号の『大乗』誌(昭和五十七年八月号)に載った私の短い文章は、あれは顕正の文章で、一ヶ所も破邪がありません。心がけて書きました。近頃なるべくマイナスは言わんように心がけております。

阿弥陀さまはそんな仏さまです。だからご法義には一ヶ所も、「いけません」とないのがほんとうです。

しかし善知識さまは教の位にいらっしゃるから、教の位の言葉使いをなさる。教育の言葉使いをなさる。その教の位の人の言葉使いをそのままは用いません。


鍬の柄のすげかえ

唐鍬

唐鍬(とうぐわ)の柄(え)が折れたら、柄の部分がまだ金の中に折れ込んでおりますから、あれをたたき出さねばなりません。そして折れ残った柄をまた使う時。

柄の大きさに合わせて金の穴を拡げる。鍛冶屋に持って行って拡げてくれと頼む。

ふいごで吹いて、金槌でたたいて拡げてくれる。それに残った柄をさし込むと、スポッと入る。

しかし、そんなアホな事はしません。なら、どうするかというと、鍬(金)はそのままにしておいて、柄の側を削る。

何回削るかちゅうと、四十八遍くらい削らにゃあならん。「かかる機を本として」私を救う。

それがね、「しっかりせえ」ちゅうて、しっかりするんならええんですが、あんたあ唐鍬の《みみ》ならふいごで吹いて、たたきゃあ拡がりもしようが、この泥凡夫はどうにも、こうにもならんから、これはそのままにしておいて、向う(仏)が私に身を削って合わせてくださった。それが命がけの兆載永劫のご苦労であります。

だからお内仏にお礼をするとき、いいこころになることはないですよ。なりゃあせんのですから。 私のことが地団太ふんで大問題だというお姿だ。今日も、きょうとて地団太ふんで私のためというお姿。

しかもあそこから私に、立派になれとおっしゃるのではない。「お前はつまらんから私が大丈夫になったよ」と言うていらっしゃる。

私の事が大問題の親さまであります。

通り抜け無用

我々は三部経のご法義の実践者です。このご法義の実践者として、曇鸞大師のご解釈を参考として、ご本願をみられた善導大師は、「唯除五逆誹謗正法」(『大無量寿経』)の八字、逆謗除取(ぎゃくほうじょしゅ)の問題に関しまして深々とお考えくださってある。

逆謗除取、逆謗(五逆罪と謗法罪)を救うか、救わんか、これこそ阿弥陀さまのお慈悲をいよいよ顕わすところであるとご覧になってある。

「已造を摂せざるにはあらざれども、重罪を告げて未造を抑止(おくし)したもう」お意(こころ)だと解釈される。
五逆謗法というのは重罪です。人間のいろんな罪の中で一番重い罪です。

世間でもそうです。法律でも子を殺すのと、親を殺すのと罪が違いますね。尊属殺人。自分より先輩であるところの親族、尊属を殺した罪は、尊属殺人というて少し罪が重い。ありゃだんだんこの時勢でとって行きゃあせんかと思う。

え、もうなくなったか。父を殺しても、隣りのおじさん殺しても同じになった。しかしそういう思想はあったわけです。そして我々の人情においては、自分の親を殺すのと、隣りのおじさん殺すのとでは、やはり自分の親を殺す方が罪が深いですよ、そりゃあ。
ということで世俗でも罪が深いとしたものであります。

そこで善導大師はこの逆謗除取を釈せられるに、この重罪を告げて未造を抑止なさったのだとされる。

刺身を食べて「うまいのう」ちゅうて、罪の深い事も知らん。そういう愚かな者だから罪を告げて、まだ造らん人、未造には、まだ五逆謗法をやっていない人には「これだけはやるなよ」と、抑え止めたもう。阿弥陀さまが抑止なさった。

「已造」とは何か。已(すで)に造った人。已に父を殺し、母を殺した人を救わないというのではない。そう解釈なさったのが善導大師です。

しかし逆謗を除くとあるのに何故、逆謗を已に造った者を救わないわけではないと釈されるのか。 それがお慈悲。お慈悲の至極。悪人正機である。

「父を殺すような重罪を犯したお前を捨てはせんぞ」と、わざわざおっしゃったんだとなさる。わざわざおっしゃるのなら、「除」という字を書かなくてもええじゃあないか。

誉めたことではないんです。罪の深い私を救うというても、「ようやった、まだやれ」と誉めて救うんじゃない。

好かんけれども、阿弥陀さまはこの私どもの日々(ひにち)毎日の罪は好かんけれども、それしかないから仕方なしにゆるしておたすけくださる。

父を殺した人に、「なんちゅう重い罪を犯したか、けれどもお前を救う親じゃぞよ。」という仏さまです。 そういう仏さまだけれども、誉めておるんじゃあないぞということを顕わすために、まだやらん者には「やっても救うぞよ、やっても救うけどやらんうちに言うとくが、こんなことはするなよ」と抑え止めなさるのである。

しかし「除」。五逆謗法を除くというお言葉の中から、善導大師は何故、救うという意味をお取りになったか。

あのねえ、大阪造幣局という所がある。お金を造る所。百円玉や五百円玉など硬貨を造る所です。
ですからめったに、私どもを中に入れてはくれません。この中にたくさんの桜並木がありまして、私は行った事がないので知りませんが、今では桜の名所だそうです。
その桜が咲いた時、ほんの何日間ではあるが、みんな見に来てもいいという日がある。工場内の決められた道順をぐるっと回って外へ出る。「通りぬけ」という。

まあ造幣局ですから一年に一回、特別な時だけですけど、普通のちょっとした工場なんぞは、通り抜けるのにそれほど厳重ではない。

ですから事情を知っている者は、近道のために工場内を通り抜ける。通り抜けられても大した事はないが、やはり工場内に部外者が入るのは困るというので、門の所に札がある。
どういう札かというと「通り抜け無用」という札。そうすると、みんなが通らんようになる。ところが私らみたいに行ったことのない者は、ここにそう書いてあると、「ああ、ここは通り抜けられる。なら私しゃここを行こう。」

「通り抜けるなよ」と書いてあるから、通り抜けられることが解る。なんにも書いてなかったら、他人の工場の中に、わざわざ入りゃあしません。通り抜けられるものだから、「通り抜け無用」と書いてある。

江戸時代の川柳にこういうのがあるそうです。

  通り抜け無用で、通り抜けが知れ。

もう少し印象深く言いますとね、私が初めて俵山温泉に入ったのは昭和二十七年。
今の風呂はきれいなと言っても、建て変ってだいぶ経つので古いが、前の風呂はうす暗い風呂でした。その風呂にはじめて入った時はびっくりしました。
まあヒゲなっと剃ろうと思いまして、カミソリを持って、タオルと石鹸もって行きました。入ろうと思うたら注意書がありますから、読んでみますと、こう書いてある。

       注 意

「湯に入るまえに、からだを(とくにしも)洗うこと。」

「湯のなかにて、入れ歯あらい、ひげそり、歯みがきなどせぬこと。」

これだけ書いてあった。今はいっぱい書いてあるですよ、道徳的なことが。
まあこれも道徳的ではありますがね。私はせっかくカミソリ持って来たのに、ヒゲソリはしてはならんとあるので、入れ歯はしておらん、歯みがきも朝やったからええが、まあそう書いてあるから、ヒゲは剃らんまま帰ってきた。しかし前が解らん。

「湯に入るまえに、からだを(とくにしも)洗うこと。」

私は「必ずしも」という言葉は知っておるけれども、「とくにしも」というのは聞いたことがない。

そうして何度か湯に通っておりますうちにね、もう亡くなったが、ある宿屋のおじいさんが二号湯の流れ口で、ですからきれいでない水ですよ。そこでからだは湯の中に入ったまま、入れ歯をはずして湯につけて、シャパ、シャバと洗って、シャッと湯を切って口にパクッと戻したですよ。きたない、ありゃあやっぱりせんがええ。

そしたら今度、ある時、「川の湯」へ出かけた時、先客が一人でした。その一人が、湯の流れ口からからだを湯に流して、アゴの下に洗面器を裏返して置いて、ヒゲを剃っておる。こりゃあええわい。

だから「そるな」というのは湯槽の中で剃るなということ。あたりまえのこと。だから洗い場では剃ってもええわけ。私は剃っちゃあいけんかと思うて、以来カミソリは持って行かなかったのに。湯槽の中でヒゲ剃るバカがおるか。しかしおる。湯の中で入れ歯を洗うのもおる。それは解ったが第一条がわからん。「とくにしも」がわからん。

湯の中に入っておりますと、肩まで湯につかって皆、頭だけ出しておる。人の顔を、ジロジロ見るわけにゃあいかんから、あっち見たり、こっち見たり。そうすると人が入ってくる。唯一の変化は人が入ってくる時だけ。どこの人か知らんが、まあ入ってくるなら、「ガラガラ」、「ガラガラ」と戸が開いて閉る。湯槽までの石段を「トントントン」と降りてきて、しゃがんで「シャバシャバ」と前を洗って、立ち上って「トボントボン」と湯に入ってくる。リズムですからどうもない。又、一人、入ってくる。

「ガラガラ、ガラガラ」
「トントントン」
「シャバシャバ」
「トボントボン」

そうしたらリズムの違うのが一人おった。

「ガラガラ、ガラガラ」
「トントントン」
「トボントボン」

ありゃあ!「シャバシャバ」がない。

まあ入湯(にゅうとう)じゃからね、朝から何回も湯に入っておるからきれいとは申せ、ありゃあやっぱり洗うたがええ。

「しも」というのは下のこと。「特に下」と書いてあればすぐ解る。何故、解らなかったかというと、「からだを」と「を」が入っているから解らん。「からだ(とくにしも)をあらうこと」とあれば、下ということだと解るが「を」が入っておるので解らん。

俵山という温泉はおもしろい湯だよ。入る前に下を洗って入れと書いてある湯なんてほかにはないぞ。私はその頃、帝国ホテルとよく言ってた。帝国ホテルの風呂には書いてなかろうと思う。帝国ホテルの風呂には、えらいすまんけど俵山の湯に入湯なさるお方々の、一般的教養よりもずいぶん高い教養の人が入ってくるから書いちゃあない。俵山には時々、洗わんのが来るから書いてある。

この「特に下を洗え」と書いてあるによって、俵山には時々、洗わんようなのがおいでなさるちゅうことです。

「唯除五逆誹謗正法」という。「五逆謗法の者を除く」とあるのは、本願という温泉には、五逆謗法の者も来るところぞということになる。

「通り抜けはいけません」とあるから、通り抜けられる。

「五逆謗法は救わん」とあるから、五逆謗法を救うんだよということになる。しかし、ほいほい「お前が一番さき」と救うんじゃあないぞ。重罪を告げて、未だ造らない者は慎んで行けよと、告げてある。


俵山温泉 http://www.tawarayama-onsen.com/


阿弥陀様が変わって下さる

ご開山さま(親鸞聖人)は、はじめ「ありがたい阿弥陀さまのお心にかなう人間になって救われよう」となさっておったんです。

ところが仲々、阿弥陀さまのお心にかなうお同行になられんというのが悩みでした。

そして法然上人を尋ねると、そりゃまるっきり違います。我々が阿弥陀さまに合わせるのじゃなくて、阿弥陀さまが私に合わせて下さったのであります。

阿弥陀さまが永久不変であって、私どもが変ってそれに合わせるのでなくて、私どもが永久不変。 そうですね、曠劫已来(こうごういらい)、常没常流転(じょうもつじょうるてん)の浅ましい凡夫ということに於いて変化のできない我々。

それに対して阿弥陀さまの方が変化して、変って合わせて下さったのであります。

三尺の身の丈の子供が六尺近い父親と話をする。 そしたら父ちゃんが、

「そんな低いところから、ものを言うても聞こえません」ちゅうから、三尺の子供が足つぎを持ってきて、父ちゃんの六尺の高さになって、

「これならええか」

「よし、言うてみい」

「おもちゃが壊れたから、修繕してくれ」

「よし、よし」

そんな親はいない。三尺の子供の身長は、そのままにしておいて、六尺のお父さんの方が、六尺の身を折り曲げて三尺になって、「なにかね」と聞く。

親の側が変る。既製品の阿弥陀さまに、私を合わせるのではない。既製品の私に、阿弥陀さまが合わせて下さった。誂(あつら)え(オーダーメイド)のご法義。 選択本願のご法義です。

知恵が慈悲となって動いている相(すがた)が仏さま。

子供が可愛い、可愛いとコタツに入っているのは愛ではない。動かねばならん。 慈悲は精神で形ではない。繕いをする。掃除をする。朝から晩までコマねずみのように動きまわる、そこに母の愛が存在しておる。

可愛いと百万遍言うても座っておるのが愛ではない。動く仏、立った仏、法蔵から弥陀へ、称名へと動く。

今現在説法(こんげんざいせっぽう)。 法蔵から弥陀へというおすがたで凡夫を救う。法蔵覩見(とけん)から凡夫を救うおすがた。

お父ちゃんとお母ちゃんが肥担桶(こえたご)を担ぐ。お母ちゃんが前を行く。お父ちゃんが後を行く。

お母ちゃん、背が低いから、あの臭い肥担桶がだんだんお母ちゃんの方へ寄っていく。

「お父ちゃん、だんだん私の方が重うなって、臭うなるじゃあないですか」

「そりゃお前の方が低いから、そっちに寄るに決っちょる。もっと天秤棒をさし上げろ」と言うお父ちゃんは、愛なきお父ちゃん。

愛あるお父ちゃんは、「そうか」ちゅうて、自分の肩から天秤棒を降して、お母ちゃんの高さまでさげていくのが愛あるお父ちゃん。

「あたり前のこっちゃ」、あたり前じゃからええじゃあないか。ごく単純な。

「変われ」というのは、愛なき言葉である。「そのままでいい、私が変りましょう」というのが愛ある言葉。

そういう点では教育というのは、愛なき所作であります。

頭の悪い子供に、勉強して賢うなれというのは、愛なき言葉であります。 這えば立て、立てば歩め、というのはやはり教育。愛の鞭とかなんとか言いますが、所詮ほんとうはつめたい言葉です。 そこで我々の世俗で持っている考え方は、たいてい教育の理屈です。「頑張りなさい」「説教中に眠ったらいけん」ちゅう説教は、非常に愛なき説教です。

眠っておるものは眠っとってよし、起きとるものは起きとってよし、どうせ起きとっても、眠ったようなのが参っとるのじゃから。

我々は頭がええと威張っております。この頭は教育の理屈を知って、その理屈を適用し、考えて威張っておる。

宗教に育つということは、人格が変るということです。宗教に育つということは、自分の持っている概念、考え方がひっくり返るということです。

したがって解る説教ちゅうのは、ええことない訳です。私の頭、世俗の頭、仏さまの話とは違った頭に、解る話は仏さまの話じゃあありません。

それをなんぼ磨きたてて行っても、仏さまの話にはなりません。だから「よく順序だててお話し下さったら、よく解るはずじゃ」という人があるが、ありゃあいかん。

衆生の頭を磨きたてても、仏法には至らん。この頭にはわけの解らん話を聞く。訳の解る話じゃあつまらんのです。

この頭が生きとるから、つまらん。この頭を殺さにゃあならん。殺すためには訳が解って行くんじゃあない。解らん話。ならどうする。「さようでございますか」「如是我聞(にょぜがもん)」と聴聞する。


片道の人格

反応がなくても平然としてやれる人間にならなくてはなりません。そしてそれは、阿弥陀さまがお待ちになっている人格です。それが宗教のすばらしいところです。

我々の頭というのは、何かをやれば、返事が返って来て事が終る。
「バカ」というたら、たたかれる。「バカ」といわれて笑っていると、「あいつは、ほんとうにバカだ」とこうなる。行って返って賢いんです。

「私の言う事が筋がとおっておる」というところで平然としておるが、親さまは、お前を救うというだけの片道の仏さま。

信じたら救うでもない、称えたら救うでもない、「必ずお前を救うぞよ」の仰せ。
それを我々が往復の理屈の頭でお慈悲を聞くからわからんのです。片道なんです。親さまは「そのまま救う。」

自力の人にはそれがわからん。「修行したら証(さと)りが開ける。」それは往復です。取り引です。

阿弥陀さまは、片道の親さまになって私をお救いくださると同時に、私どもをこの世滞在の間に片道の人格にしてやろうというお意(こころ)がある。

ところが賢(えら)そうなのがいっぱいおりまして、自分では取り引きの理屈を批判できない。反省できない。
熱心な信者の方々ですが、この取り引きの理屈を基礎としているところに間違いがあります。

昔、某という人があった。この人も熱心な人ではあったが、この間違い、取り引きであることに気づいておられない。

「これ程広大なお慈悲を聞きながら、わかったとも、わからんとも知れんなど言うことがあるものか」

この広大なお慈悲を聞いたら、何か反応がなければならぬという論理でしょ。いつ親さまがそんな事をおっしゃった。

「お前さんに曠劫(こうごう)より已来(このかた)、私は目をかけているんだよ。目にかけてるのに知らん顔をして。この度というこの度はつかまえたぞ」とおっしゃるのに、まだ逃げようとしている。

摂取不捨というのは「逃ぐる者をおわえとるなり」(親鸞聖人『浄土和讃』)。
ご開山さまは「私は逃げとる」と。「愛欲の広海に沈没(ちんもつ)して真証の証に近づくことを快(たのし)ま」(親鸞聖人『教行信証』)んというのを、追いかけ追いつき、追い越し、迎えとってくださるお方です。

片道。片道の親さまになっておたすけくださるのです。

同時に我々を片道の人格にしようとなさる。片道の人格になってゆきますと、寝たきりの反応のない病人にも、たくさん語りかけることのできる人間になるでしょうね。

「今日は暑いよ、ばあちゃん暑いよ。隣りにゃあこの暑いのに鍬を担いで行ったよ。そろそろ畑も打っとかにゃ。雨降ったら大根蒔かにゃあならんちゅうて行きよったよ」

反応のない人にも聞こえておる。我々は反応がないとすぐ「甲斐がない」という。甲斐がないというなら、阿弥陀さまがお喚(よ)びたもうた今日まで、どれ程甲斐がなかったでしょうかね。片道という程、すばらしい事はないですよ。

さて親さまの片道は今からも聞かせて頂くが、聞かせて頂いた上からは、御恩報謝といたしまして、片道の人格になる稽古をしなければなりません。


信心とご報謝の論理

信心とご報謝は、理屈が違う。信心からご報謝がはじまります。

それで大切なのは信心ですから、「信心をもて本とせられ侯」(『御文章』)。
そうすると、報謝を末とする。ですから、いつも信心のお話があるわけです。
信心は何の話かというと、如来さまのお話。ご報謝は私どもの努力。私どもの努力を、ご信心のところでごっちゃに考えるのを自力という。

今、『入出二門偈』のお勤めをしましたが、中に「当知今将談仏力」とありました。

今、仏力を談ずる。「これは仏さまのお話なんですよ。」ご法義は私達の話ではないんでありまして、仏さまのお話なんです。
だから説教中に眠っとるとか、起きとるというのは、私どもの話。眠っとろうが起きちょろうが、必ず救うというのが如来さまのお話。

仏さまのお話ばかり聞いとけばいいのです。

「仲々わからん」。それは我々の話。

「よくわかった」。これも我々の話。そんな話ではない、必ず救うという仏さまのお話。「当知今将談仏力」。ええですね。

ご信心は如来さまのお話。ここへ我々の話を持ち込んではならん。我々の話も、如来さまのお考えの中に、出てくることは出てくる。

「汝は地獄行きの、思うこともつまらん、することもつまらんから、汝の思う心も使いはせん。言うことも、することも使いはせん。全部私が用意をした、それが機法一体の南無阿弥陀仏」というお話。それが信心。

さてその上から、そのことを聴聞いたしますと、私どものご報謝が起るようになっている。

「他力催促の大行」、他力催促というお意。お称名はご報謝です。

我々がお称名しますのにテレーッとしとってもつまらん。「お説教はテレーッと聞け」というのは、信心の側のお話ですよ。
ご報謝は私の努力。「お説教中に眠るちゅうことがあるものか」ご報謝はこうなんだと、言うて聞かせられるものではない。
ご信心から出るものだから、ご報謝のおすすめはありません。すすめても例えばこのくらい。

「死ぬるのが嫌だ嫌だといい続けても、なんにもなりませんよ。死ぬるのは、うまい事をさせてもらうんだ、喜びが近づくんだと思うように心がけた方がいいですよ」という程度にしか私は言わん。
何故かって、それは凡夫である他人から催促されるものではなくて、親さまのお慈悲から催促されるものなんです。一人ひとりに起ってくるものなのです。

しかし自分の身の内では自策自励、自分で鞭打って努力するものであります。だからお称名というものは、自分で努力せねばならんのです。
これは私が言うのではない。努力してお称名なさいというお説教はしません。しませんがご自分の心の中では

「こういう事では申し訳けないぞ。あんたはあの人のお称名を聞いて、よくお称名する人じゃなあと思っただろう。思ったならお称名しなさいよ」と、我を打ちたたいて努力するのであります。

なかには、この努力はしないものだと思ってる人があります。真宗には全く努力はないと思ってる人がある。お称名が、テレーッとしとるとひとりで出てくるものかと思うちょる。

そりゃ「屁」じゃ。お称名は屁とは違いますよ。称えようと思うのです。称えようと思って称えるのです。そりゃあ癖になってからは、お称名がひとりでに出ますよ。

「蠅を打ちて南無阿弥陀仏口の癖」。口ぐせ、いちいち思いませんが、癖になるほどに思ったことがあったから、癖になったんでしょ。
年をとっても癖になっておらん人があるというのは、気の毒であります。

間違える人があるから言わにゃあならんが、称えにゃ救われんというのではない。今はご信心の話しではない。お称名はご報謝の話。

称えん者は、称えるように気をつけてこなかったから。気をつけるのが、努力であります。その気をつける、私ども、気をつけるんです。その気をつける心が起るのも、親さまのご催促。心のもとまで催促してくださる。


約仏・約生

ご当流の言いかたには、私共の側の言いかたと、仏様の側の言いかたというものがあるわけです。

覚如上人も蓮如上人も、これはお師匠さまであります。教の位の人であります。お釈迦様の後継者(あとつぎ)であります。ご開山(親鸞聖人)も我々にとってはそうです。

ご開山ご自身は、
「私は師匠ではない。私は、阿弥陀さまのまん前に座って、振り向きもせずお喚び声を聞いていく、一人の愚か者」
という立場を通された。通されたけれども、我々後の世のものからすると、ご開山様は私共のお師匠であります。

お師匠というものは、教の位に立つわけであります。教の位に立つ人は、言いかたが違います。先生の言いかたは違う。先生は、私共を導いてくださるのでありますから、主として私共の態度でおっしゃいます。

けれども、私共としましては、なるべく私共の態度の側からの言いかたはしない方がいいわけです。そうせんと間違います。

『歎異抄』の落ち度は、私は落ち度と思うが、最初から、終いまで私共の側の言いかた。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて」、そこまでは仏様の言いかた。
「往生をばとぐるなりと信じ」は、こっちの側の言いかた。
「念仏申さんと」こっちの言いかた、
「思い立つ心のおこるとき」もこっちの言いかた。
こっちの言いかたをすると間違う。

仏さまの側からいう。「私のところに来てくださって、私をおたすけくださる。」と言えばいいわけです。

「本願を信じ念仏申さば、仏に成る」は、こっちの側の言いかた。

「親さまは、信じさせ、称えさせて迎えとる親さまじゃ」というたら、親様の側の言いかた。

親様の側のいいかたで言うようにせんと、とうとう地獄ですよ、そりゃあもう。間違いとは申しませんが、おそらく間違いに流されていく。自力地獄に落ちていく端緒は、約生地獄です。

仏様の側からいうのを約仏(やくぶつ)という。
私共の側からいうのを約生(やくしょう)という。
あるいは、約法といい、あるいは、約機という。約機、約生の私の側から言う癖をつけとくと、いつまで経っても駄目です。

私共の側を捨てるのがご法義、他力のご法義なんだから、心掛けて私共の側から言わんようにするのがよいですよ。

「ちょっとお尋ねしますが」と尋ねられたとします。

「あなたのお領解(りょうげ)をいうてみなさい」

「はい、私は間違いない親さまじゃと、いただいております」と言うと、そりゃあ私の側の言いかた。

「はい、必ず救うの親様でございます」と言うたら仏様の側。

「あんたのお領解を言うてみなさいと言うたじゃありませんか」

「はい、必ず救うの親様であります」

「あんたのお領解を尋ねているのです」

「私が言うておるのだから、それでいいじゃないですか。」

あのねえ、自分を語らなくても自分を言うことはできるんです。

あるお寺で面白いことがありましたよ。九月三十日のこと。
坊守さんが「晩にお説教がありますから、夕飯にはお酒は出しますまい。お説教がすんでから、出しましょう」といわれる。
なあに一合二合の酒で狂うかよと思うたが、お客様じゃから、そんなことを言うてはいかん。

そして、晩の説教で「ビールちゅうもんは、うまいものですよ」とお話ししておった。なんでそんな事言うたかちゅうと、おたとえや。

「それ、八万の法蔵を知るというとも、後世を知らざる人を愚者とする。たとひ、一文不知の尼入道といえども、後世を知るを智者とすといへり。」というたとえに

「ビールちゅうもんは喉をキュウッと刺戟してうまい、あれをにがいと言うて飲まんバカがおる」

ちゅうたらね、後ろに坊守さんとお手伝いのおばさんが並んで聴聞しとったが、二人がコソコソとしゃべって、おばさんが立って外に出ていった。私は、はっと思った。なにせもう九月三十日やから。そこで

「秋も彼岸を過ぎると、酒がええですな」と言うた。

「白玉の歯にしみとおる秋の夜の、酒は静かに飲むべかりけり」ちゅうたら、奥さんがスーと立ちあがって行った。
そしてしばらくして、二人がニヤニヤして入ってきた。解るでしょ。
私は、一つも約生で言うていない。私は、酒が好きとも言うてない。ビールはうまい。秋は酒がうまい。約仏で言うた。
しかし、聞いた人は、言うた人の事だと聞いたから立って行った。
ね、「私」を説明しなくても、「私」の説明は行われるわけです。
「酒はうまいですな」と言えば、「ああこの人は酒の好きな人や」と、とる。
それを、「私は酒が好きです」と言うのは、酒の話でなくて私の話。

私の話はせんがええ。

聞くのは、全部阿弥陀様の話。これも心掛けるがいいです。せめては、五年心掛けますとね、自分を抜きにして親様を喜べる心が育って来ます。
そういう内々の努力はご恩報謝です。

ご開山(親鸞聖人)の『教行信証』には、全くとはいわないが、ほとんどご自分のお味わいは言うておられない。

そうすると、すぐ、六字釈ではご開山は約生でもおっしゃると言う。六字の御釈、南無阿弥陀仏のご説明をしてくださるのに、約生と約仏があるわけです。

約仏というのは、仏様の側から。『教行信証』の行の巻の御解釈がそれです。この南無阿弥陀仏は本願召喚の勅命である。「お喚び声」だ。

それから「如来すでに衆生の行を回施(えせ)したまふの心なり」。
あんたの用意はすんだぞよ、というお言葉であります。それから「即是其行」というのは「選択本願是也」。どういうことかちゅうと、称名となって出る仏様ですよということ。全部仏様の側。

ところが同じご開山様が『尊号真像名文』には、どう言われるかというと、「南無というは帰命、帰命というは、釈迦、弥陀二尊のめしに従い、おおせにかなうことである」と。 「釈迦弥陀二尊という仏様のめし」とそこまでは仏様の話だが、「従う」というのはこっちのこと。「おおせ」というのは仏様じゃが、「かなう」というのはこっちの話。そこの六字釈は約機、約生の言いかたや。

或るお方が

「深川君、君は約仏約仏と言うけれども、『銘文』には約生の釈もあるんだから、僕は約生が大切だと思うよ」

とおっしゃるから、そりゃあ、先輩のお方だから、しょうがない。

「はい、さようでござんす」とは言ったけれども、知ってます、と私は思うちょる。
けっこうですよ、約生がまちがいだとは言わないが、他力のご法義は唯のおたすけではなくて、そのおたすけを告げながら、私共の人格を今生(やくしょう)において他力的人格に変えようという下心があるんだ。
それならば、どういうのが他力的であるか。己を語らざる人間。

宗祖の『教行信証』は、難しい相手に対して「どんと来い」とやった、ちゃんとした書物でありまして、その主著たる『教行信証』では約仏なのであります。ですから、なるべく約仏がええ。

教の位にある人はいろいろ言う。お師匠様の言葉を、聞位にあるものがそのまま持って回れば、そりゃあおかしいですよ。

親父が息子に、「人に親切にしなさいよ」と言ったとき、息子が「人に親切にしなさいよ」と言うたとする。
いらんことを言うな。現実に人に親切にするのが、言われた方の子供の立場である。

『御文章』、『口伝鈔』、御門跡さまのお書物は、用心しなければなりません。教の位の言葉でありますから。

そして私共は、その教の位の方の教えの前に座る、唯の一人の、実践するものという立場におらねばならんのです。


信仰生活の規準

真宗のご法義においては、信心のお説教とご報謝の理屈とは違う。

信心の側は如来さまのお話でありまして、ご報謝は私の努力。
如来さまはどう言われるかというと、五逆も謗法も「摂せざるにはあらず」、ということは救うということ。

しかしご報謝としては、「小罪も造らず」という努力をしなさいということです。
それは「おまえようやったぞよ、よくおやじを殺したぞよ」と誉めて救うんではない。

「おまえは自分の地獄の業に引き回されて父を殺したか、母を殺したか。この弥陀しか救う親はおらん。おまえを落しはせんぞ」というお慈悲を告げて下さるのがご信心の話。

それを誉めてるんじゃあないんだから、そこのところから、ご報謝としては、小罪も造らずと努力していく。

ご本願というものの中へ、私どもの信仰生活の規準を求めるわけですが、私は、このご報謝が信仰生活だと思います。
ご信心は信仰そのものです。信仰生活の、ご本願に於ける規準は何かちゅうと、一つはここであります。
重罪を告げて、未造を抑止したもう。摂ぜざるにはあらざれども、救わんわけではないけれども、悪いことはするなよというのが阿弥陀さまなんです。

悪いことはするなよというのは抑止であって、私どもの信仰生活を指示している。
慎しみの生活である。しかしそれはマイナスの言い方。

悪いことはするなと言うんですから、ええことはしなさいというのは、ここからは出てこんのであります。

ええこと、悪いことの規準はいろいろあるけれども、又、それは別に申さねばなりませんが、悪いことをするなという規準が、この「唯除五逆誹謗正法」です。

「あんたあ、何故悪いことをせんように、心掛けてるんですか」

「そりゃああんたあ、悪いことをしちゃあ、いけませんわあね」というのはただの人。

「親さまが泣きなさるから、親さまにご心配をおかけするから」。 心配をかけても救わんわけではない、というのがここ。

もう一つ、もっと積極的にどんどんやろうという根拠はどこか、「乃至十念」の「乃至」であります。
多念をはげむ、一声でよろしいというのにたくさん称えるというのは、これはもっともっとご報謝を致しましょうというプラスでいうとる。

ご本願に於ける信仰生活の規準は、マイナス・慎しみの側からいうと「唯除五逆誹謗正法」。
プラスの側からいうたら「乃至十念」。そこは文如上人のご法語に、「信は大悲の仏智にすがり、報謝は行者の厚念に励むべし」とあります。