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二 本願寺門徒と讃門徒

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浄土真宗と北陸門徒 千葉 乗隆

一 初期真宗と北陸
二 本願寺門徒と讃門徒
三 蓮如上人の北陸教化
四 北陸門徒の組織
ウィキポータル 千葉乗隆

(1)覚如上人と三代傳持の血脈

 先ず本願寺門徒というもの即ち本願寺がどの様な形で形成され、そこにどういった教団が生まれてきたかということをとりあげたいと思います。そこでまず覚如上人の三代傳持の血脈という項目を掲げておました。仏教用語としての血脈といいますのは法脈という言葉と同じです。血の流れが親から子へ、子から孫へと受け継がれてゆくと同じように仏法の流れも師匠から弟子へと流れて行くんだという意味から、仏法の流れを血脈と申しております。

 そこで覚如上人が三代傳持の血脈ということを提唱されるわけです。これは『口傳鈔』という覚如上人が著された書物の中でいっておられるのです。浄土真宗のみ教えは法然上人から親鸞聖人へ、親鸞聖人から如信上人へと三代にわたって正しく伝えられたのであると主張なさるのが三代傳持です。その背景には自分は如信上人から浄土真宗のみ教えを直接に口伝えで教えていただいたのであるというのです。それを主張なさる背景にはいろいろな問題があります。

 親鸞聖人がお亡くなりになりますと鳥辺野で火葬にいたし、東山の大谷に門弟方がささやかなお墓を建てます。そのお墓が余りにもお粗末で、しかも雨風に晒されるといったところから、墓を覆いますところのお堂、廟堂を建てます。親鸞聖人のお子さんの覚信尼様と東国の門弟方が協力して、お墓を覆うお堂を作るわけです。これが大谷廟堂です。その大谷廟堂は、覚信尼様が再婚なさった小野宮家の敷地に営まれました。

 その大谷廟堂のお守りをする留守職(るすしき)は、覚信尼様がなさいます。覚信尼様は亡くなられる時に、第二代の留守職にお子様の覚恵という方を指名をなさいます。ところが覚信尼様は最初は日野広綱という方と結婚なさいまして、覚恵様がお生まれになります。その後、日野広綱氏が亡りますと小野宮禅念と再婚されます。そして生まれたお子さんが唯善というお方です。大谷廟堂を建てたのは再婚された小野宮禅念の庭先であります。そこで二代目の留守職を誰に指名するかということで覚信尼様は色々と悩まれたようです。しかし病気が重くなりまして、後継者を指名しておかないとトラブルが起こるといったところから、覚恵という日野広綱氏との間に生まれましたお子様を二代目留守職として指名してお亡くなりになります。

 ところが唯善そのころ東国に住み生活に大変困っていることを聞き、覚恵様は京都の大谷へ呼び寄せて一緒に生活をすることになります。唯善は大谷廟堂の建っておりますところの土地は、自分の父親が持っていた土地なんだ、そうすると自分に相続権があるのだというようなことを考えまして、大谷廟堂を継ごうという意志を持つようになります。それをまた応援する人も出てきまして、ここに紛争が起こります。これが唯善事件と呼ばれ、ついに最後は裁判にかけました結果、唯善の方が敗訴になりそうな状況になり、唯善は大谷廟堂を破壊します。そして親鸞聖人のお木像とご遺骨を持って関東に逐電をします。その事件の最中に二代目留守職の覚恵上人がお亡くなられます。亡くなる前に三代目の留守職はお子さんの覚如上人に譲り状をお書きになりました。

 唯善が廟堂を破壊して親鸞聖人のお木像とご遺骨とを持って関東の方に逐電をしますので門弟方は寄り集まりまして、残っておりますご遺骨を集め、またお木像もこしらえました。そしてお堂を修復して元の姿にするわけです。そこで覚如上人が父覚恵上人から譲り状を受けておりますので、大谷廟堂の三代目留守職に就任をしたいという申し入れを致します。ところが門弟方が反対をするわけです。大谷廟堂が破壊されたのは覚恵、唯善の兄弟喧嘩の結果であって、自分達が苦労して建てた親鸞聖人のお墓を破壊してしまった。覚如上人が留守職になると再び唯善がどの様な仕返しをするか分からないといったこともありまして、覚如上人が三代目留守職に就任することを承知しないわけす。

 その他色々いきさつはあるのですが、覚如上人は十二箇条にわたる誓約書を門弟方に入れまして、ようやく留守職に就きます。その留守職の地位は、門弟方の意によって左右され不安定なものでした。そこで覚如上人は、大谷廟堂を寺院化して親鸞聖人の門弟方の中心的な存在にしたいという念願をいだき、留守職になりますと廟堂に専修寺という額を掛けます。比叡山がそれを聞きつけまして、けしからんというわけです。親鸞聖人・法然上人が流罪になったのは専ら念仏をとなえればいい、他の教えはいらない、そういった専修念仏を提唱したから流罪になった。従って専修という言葉は使ってはいけない言葉だ、それを使った寺の名前を大谷廟堂に掛けるとはけしからんと抗議を申し込んできました。そこで覚如上人は慌てて専修寺という額を撤去いたします。

 この額は東国の門弟法智が持ち帰ったということなんです。そして一説によりますと高田の専修寺の額は、大谷廟堂に掛かっていたものではなかろうかということも言われます。『存覚一期記]』という覚如上人のお子様、存覚上人のお書きになりました記録によりますと、専修寺の額は東国に持ち帰ったということだけが記してありまして、どこに持って帰ったかはハッキリはいたしておりません。こういう訳で専修寺を撤去してその後に本願寺という名称を廟堂に付することになります。廟堂に本願寺という寺名を掲げて寺院化いたしますと同時にその寺の住職は、たんなるお墓の管理人的な留守職ではなくして、やはり教団の中心的な人物でなくてはいけない。その中心人物たる資格は親鸞聖人の正しいみ教えを継承しておるものでなくてはならないんだ。そこで三代傳持の血脈ということを提唱するわけなんです。

 覚如上人は法然上人から親鸞聖人へ、親鸞聖人から如信上人へと引き継がれた浄土真宗のみ教えを自分は引き継いでいるんだということを表明されます。それが三代傳持の血脈です。従って血脈の方からいいますと親鸞、如信、覚如とこういう系譜を辿ります。一方留守職の方からは覚信尼、覚恵、覚如と両者が覚如上人において一致をするわけなんですね。こういうことで覚如上人は自分こそ親鸞聖人の正しいみ教えを受け継ぐものであると標傍なさいます。これに対しまして関東の門弟方もそれぞれに自分たちこそ親鸞聖人の正しい教えを受け継いでいるのであると覚如上人に対抗いたします。

 例えば先ほどの善鸞事件のときに性信という方が活躍したことを申し上げましたが、この横曽根門徒では法然、親鸞、性信とこういう形でみ教えが伝えられたということを主張します。「親鸞聖人血脈文集」横曽根門徒に親鸞聖人が与えられました御消息を五通ほど収録したこの最後の奥書に浄土真宗のみ教えは法然上人から親鸞聖人へ、親鸞聖人から性信へと三代にわたって伝えられたことを記しています。つまりここでも三代傳持の血脈ということを打ち出しています。こういう形で高田は親鸞聖人から真仏上人へ、真仏上人から顕智上人へと教えが受け継がれたと、それぞれ関東の門弟方は本願寺に対抗いたしまして、自分たちこそ親鸞聖人の正しいみ教えを受け継ぐ門徒なんだと主張します。

 こうして覚如上人が三代傳持の血脈を標傍されますと、関東の門弟方が自分たちもまた親鸞聖人のみ教えを正しく受け継ぐものであると、それぞれ正当性を主張すると同時に、またその教団独自のカラーといいますか、自分たちは親鸞聖人からこういうみ教えをいただいているということを主張することになります。そうしたことが、例えば礼拝対象であるところの御本尊にも現れてきます。

 覚如上人を中心といたします本願寺門徒は、十字の名号を大切にするわけです。また荒木門徒といいます、後に仏光寺という一つの大きな教団を形成しますが、この仏光寺教団では、南無不可思議光仏とか南無不可思議光如来という八字ないし九字の名号を大切にするというふうに、それぞれ礼拝対象が変わります。また念仏者の名称につきましても高田門徒では真仏聖とか顕智聖と申しています。また鹿島門徒では沙彌信海といって沙彌という名称を使います。これは光明本尊に札銘がありまして、その中で沙彌信海という称号を使っています。また、先ほどもうしました「親鸞聖人血脈文集」を編集した、横曾根門徒のリーダーでありました性信は、「沙門性信」と称しました。お東の坂東本の『教行信証』奥書きに「沙門性信」とあります。そこで横曾根門徒では、沙門という名称を使っています。

 それから、荒木門徒とう高田門徒の傍系に属する門徒がありますが、この門徒は上人という称号を使っております。いま荒木門徒を高田門徒の傍系であると申しましたが、じつはこれには少し問題があります。高田門徒を開かれましたのは親鸞聖人の高弟の真仏上人です。ところが真仏と称するお方が二人おられます。常陸の大部に平太郎というお方がおられまして、これは『御伝鈔』の中に平太郎が熊野詣でをするにつけまして親鸞聖人のもとを訪ね熊野社に参詣することについての心構えを尋ねております。この平太郎が真仏と称したといわれております。これは『親鸞聖人御因縁秘伝抄』という『御伝鈔』とはまた違った、もうすこし後で編集されました親鸞聖人に関する伝記でありますが、その中に常陸の平太郎のことを記しています。その中に平太郎が熊野詣でをした後に、熊野の神様から真仏聖人とあがめられたと書かれてあります。平太郎は、自分は親鸞聖人が生きておられる間は真仏上人というように上人として敬うようなことはして欲しくないという話があります。そこで常陸の真仏と下野の真仏と二人おられまして、常陸の方の真仏さんは上人号を使ったので、そこで荒木門徒は常陸の真仏上人の系統ではなかろうか。

 覚如上人が三代傳持の血脈を主張なさいまして、本願寺を中心と致しますところの真宗全門徒の結集を計ろうとされますが、それにつきましては関東の門弟をはじめ、各地の門徒の中に反対の雰囲気が濃厚で自分達こそ親鸞聖人の正しい教えを受け継ぐ門徒団なんだという主張をして覚如上人の三代傳持に対抗して、自ら三代傳持の血脈説を立てて対抗するということになり、覚如上人の志念された本願寺を中心とする全門徒の結集ということは挫折します。覚如上人の志は、やがて蓮如上人のお出ましを待ちまして達成されます。

(2)本願寺教団の形成

 覚如上人は親鸞聖人の墓所の大谷本廟を寺院化いたしまして、当初は専修寺という寺号をとなえ、比叡山の抗議により本願寺という名称に改めました。そしてこの本願寺を中心にいたしまして、浄土真宗のみ教えをいただく親鸞聖人の全門弟を結集しようとしました。そのためには本願寺の主である覚如上人が、親鸞聖人の正しいみ教えを受け継ぐ者であるということをはっきりさせようとして、三代傳持の血脈という、法然・親鸞・如信と伝えられましたところの浄土真宗のみ教えは、覚如上人に引き継がれたのであるということを打ち出されたのであります。こういった覚如上人の三代傳持の血脈説というものがかえって門弟団の反発を受けまして、各地の門徒が独立教団的な傾向が強くなってきたということを申し上げてきたわけです。

 こういった覚如上人の志念が達せられなかった背景には、お子様の存覚上人との関係が絡んでいます。覚如上人のご長男は存覚上人、次男は従覚上人でございます。この覚如上人と存覚上人の中があまりよろしくなかったのです。それが門弟団の中でも覚如上人を支持する門弟と、存覚上人を支持する門弟という色分けがされまして、そこに本願寺を中心とする教団というものが、一本にまとまらなかった原因があると考えられます。

 それは例えば、覚如上人と存覚上人との性格の違いにも依るのではなかろうかと考えられます。覚如上人はどちらかといいますと保守的なお方であります。釋尊のお亡くなりになったのちに、仏教教団が保守的な上座部と進歩的な大衆部に分かれて、それがやがて小乗仏教と大乗仏教という二つの大きな潮流になっていくということはすでにご承知のことでございますが、親鸞聖人の後を受け継ぐところの覚如上人のお考えの中には、上座部的なと申しますか、非常に保守的な傾向が濃厚であったのに対しまして、存覚上人とどちらかといえば進歩的といいますか、いわゆる大衆部的な色彩が濃厚であったと考えられまして、こういった辺に親子でありながらお二方が対立せざるを得なかった一番大きな原因があるのではなかろうかと考えられます。お二方を取り巻く門弟団も存覚上人を支持する門弟と、それから覚如上人を支持する門弟と、こういった二派に大きく分けられるわけです。

 そこで先に申し上げましたように、覚如上人は父の二代目留守職の覚恵上人から譲り状を受けて、三代目の留守職につくべきではありましたが、どうも門弟団の反対が強くてなかなか大谷廟堂の留守職になれなかったのです。その反対派の中心になっていたのが高田派の主流です。実は高田派も色々な派に分かれておりまして、ご承知のように高田派は真仏上人がお住まいになっておられました下野の国、高田の専修寺が中心拠点です。この主流を受け継ぎますのが顕智上人以下です。真仏上人にもたくさんのご門弟方がおられますが、その中でも奥州、現在の福島県の浅香郡に覚円という方がおられました。この門徒を浅香門徒ともうしております。この浅香門徒は同じ真仏上人の系統ではありますが、主流の顕智上人の流れを汲む方は覚如上人には批判的でありましたが、浅香門徒の法智という人は覚如上人を支持します。ですから同じ高田派でありながらどうも一本にまとまらないで、覚如上人支持派と存覚上人支持派という具合いに分かれます。また鹿島門徒というのがございますがこの鹿島門徒のほうはやはり覚如上人を支持するわけで、従って覚如上人を支持する門徒団は浅香門徒と鹿島門徒ぐらいだったわけです。あとの他の門徒はほとんどが存覚上人支持ということでありまして、東国門弟団の大多数は覚如上人に批判的であったわけです。そういったところから覚如上人が留守式になかなか就任できなかった背景があります。

 そこで覚如上人は浅香門徒の法智とか鹿島門徒の順慶などの支持を得まして「十二箇条懇望状」を門弟団に提示致しまして、ようやく留守職に就任する承諾を得ます。この「十二箇条懇望状」は覚如上人にとりましては屈辱的な条項が連ねてあります。

 例えば第一条は、毎日御影堂のお勤めは怠らないように勤めること

 第二条には祖母の覚信尼の寄進状に背かないこととあります。これは覚信尼が大谷廟堂を建てるとき廟堂の今後の運営については万事門弟方と相談をしながら運営をしていくことが書かれていますが、これに背かないようにする。

 また第三条には門弟の中からたとえ留守職に申しつけられても、もし門弟の意に背いた場合には即刻御影堂から追放されても一言も言い訳を申さないこと。

 第四条は廟堂に関する門弟の権限については「後宇多、伏見の両院宣と検非違使の庁裁および青蓮院の裁決によって明確であるから留守職であっても一切何も申さない、廟堂運営の主導権は門弟団が握っていることを確認することです。あるいは、私の借金をば門弟方に肩代りをしないこととか、御影堂の中に遊女などを呼び寄せて酒宴をしないなどという条項がずらりと連ねてありまして、覚如上人にとりましては大変屈辱的な誓約書であります。

 このような「十二箇条の懇望状」を門弟団に提出しまして留守職になる承認を得るわけです。そういった背景がありまして自分は単なる親鸞聖人の墓堂の管理人ではないのだ、正しいみ教えを受け継ぐ継承者であるということをはっきりさせるために三代傳持の血脈ということを申すわけです。

 それが今のようないきさつで留守職についたものですから門弟団の反発をうけることになります。そういうことで覚如上人はせっかく留守職になりまして、大谷廟堂を寺院化しまして、その住職となって教団の中心人物になろうとするわけですが、ところが高田門徒以下の東国の門弟から反対をうけまして、うまく行かない。例えば、廟堂を寺院化しまして本願寺という寺名を名乗りますと寺としての形態をとりますためには、お堂の中心に本尊として阿弥陀仏のお木像を安置しなければならないことになります。大谷廟堂は親鸞聖人のお墓からスタートしますから、当初の廟堂はお堂の中央にお墓があります。そしてその墓堂の正面の段上には親鸞聖人の御影を安置していたようですが、後にはお木像を安置するわけです。ところが唯善事件がありました際に、そのお墓がお堂の中央から姿を消して、お木像だけ安置することになります。

 今度は本願寺という寺名を名乗るようになりますと、親鸞聖人のお木像を少し横によせまして、阿弥陀様のお木像を安置したわけです。そうすると高田の門徒からさっそく抗議がありました。元々大谷廟堂というのは親鸞聖人の墓堂としてこしらえたものであり、その中央には親鸞聖人のお木像を置くべきである。本願寺という寺号を唱えて、阿弥陀様の木像を置くとはけしからんということです。そこで覚如上人はやむなく阿弥陀様を撤去致しまして親鸞聖人のお木像を中央に置きます。そしてしばらくしてほとぼりがさめましたら、再び阿弥陀様を安置する。そしてまた抗議がくるとまた親鸞聖人のお木像を中央に安置するというようなことを繰り返したということです。これは高田専修寺の順証という方の手紙に記しています。

 こういったことは基本的にはやはり一つは覚如上人と存覚上人との対立とそれを支持する門弟団とがこういった形で色分けをされたというところに大きな原因があると考えられるます。そこでせっかく留守職になられた覚如上人ですが、なかなか教団がうまくいかないと、なんとか自分の反対に回っています高田門徒の支持を取り付けたいと考えます。そこで留守職になった翌年、高田門徒の系統に属し、越前におきまして大きな勢力を持っていました大町門徒の如導に接触します。高田門徒は三河の方にのび、和田門徒と称する門徒団を形成します。この和田門徒からさらにこの越前の大町で展開しますのが、大町門徒であります。これは如導上人を中心としてこの越前で広がった門徒であります。

 そこで覚如上人は留守職を継がれた翌年、さっそく如導をたずねます。そして如導のもとに滞在して如導に教行信証の伝授をしますと同時に、「鏡の御影」現在本願寺にあり国宝になっております。この鏡の御影をもってきまして、御開帳をします。これは結局は越前の教団の中心人物で、高田門徒の系統である如導に自分の支持を働きかけるという意図があったのではなかろうかと推測されます。

 こういう形で、覚如上人は留守職になられても思うようにいかないといったところから、留守職になって四年目に存覚上人に留守職を譲られます。存覚上人は辞退されるのですが、強く主張し存覚上人に留守職を譲り、自分は隠居されます。覚如上人は京都の一条大宮の窪坊に隠居して大谷廟堂は存覚上人がお住まいになられます。というわけで八年間ほどは存覚上人がいわば四代目の留守職になられるわけです。

 ところが八年ほど経ちますと今度は存覚上人と覚如上人の間が、どうもあやしくなってくるのです。なぜかということにつきましては、一つには先刻申し上げましたように、基本的には、存覚上人のお考えと覚如上人のお考えつまり、覚如上人は保守的な方であるし、存覚上人は大変進歩的で時代に即応した教学というものを考えておられたようでありまして、そういった思想的な面の問題の他に、家庭内のごたごたが関わってきているようであります。覚如上人は女性に関しましては大変甘い一面がございまして、奥様を何人か替えられるということもありましたし、同時に複数の女性と関わっておられたというようなこともあります。ちょうど存覚上人を勘当し留守職を奪う、その少し前に、覚如上人は若い奥さんを迎えています。その奥様が隠居の身分の覚如上人をそそのかしたような形跡があるのです。そこで覚如上人は存覚上人を勘当致しまして、再び留守職に返り咲くわけです。そうしますと今度は高田門徒などから、それに対する反発が起こります。

 存覚上人が覚如上人から勘当されますと、その翌年には東国門徒が連判状を作製しまして、存覚上人の復権運動が展開されます。連判状には四十四人ほどの門弟が、署名をしまして、存覚上人の義絶をといて、元の地位に戻せという、復権を要求する運動が高田門徒を中心に展開されました。こういうことで存覚上人と覚如上人親子のお二方の争いが、門弟団の派閥の争いと絡みまして、大層複雑な様相を呈してきたのでした。覚如上人が本願寺を中心にして、全門徒団を結集しようという考えが、いっこうに進展しない。かえって高田門徒などの地方門徒が、本願寺から離反するような傾向がでてきます。それは例えば、三河から伊勢の方面へかけて展開する高田門徒は、大谷の本廟にお参りをしないで、下野国の高田専修寺へお参りをする、こういった風な状況がでてきまして、大谷廟堂を中心としまして全教団の統一ということがどうもうまくいかないという状況になってきます。

(3)如導上人と讃門徒

 如道上人の道という字は「道」という字をかく場合と、「導」という字をかく場合とふた通りあります。そこでこの越前大町に展開致しましたところの如導上人の系譜は、親鸞聖人の門弟で、高田門徒の開祖であるところの真仏上人の弟子に、本流の方は顕智・専空と受け継がれるわけです。一方専信房専海という方がおられます。この専信房専海も親鸞聖人の信頼を得ていた方であります。真仏上人の弟子でもありますが、親鸞聖人にも直接お目にかかってみ教えを聞かれた方でありまして、親鸞聖人が生きておられるときに三河の方に移って来られました。親鸞聖人の建長八年五月二十八日のお手紙に、「専信房、京近くなられ候こそ頼もしく覚えそうらえ」とあります。以前は下野の国におったけれども建長八年頃に、下野の国から三河の国にやってきた。そこで京都の近くに移ってこられたので自分は、大変頼もしく心強く覚えるということが、親鸞聖人のお手紙に見えておりまして、親鸞聖人が大変信頼されました門弟の一人であります。この専信房専海が、親鸞聖人のお許しを得まして、親鸞聖人の絵像をつくります。それが安城の御影と称する聖人の肖像であります。これは現在本願寺に所蔵されておりまして、鏡の御影と並びまして国宝に指定されております。三河の国の安城を中心に専海の弟子が活躍致します。その専海の遺跡に伝えられましたものが、この安城の御影であります。これは蓮如上人の時に本願寺に借りられまして、蓮如上人はこれをお写しになります。蓮如上人はこの安城の御影をしばらく本願寺においておかれますが、その後お返しになられます。ところが次の実如上人の時に願照寺という専海のお寺から本願寺に寄付をなさいます。そのため現在本願寺が所蔵しております。

 それから高田派の本山にありますところの、『教行信証』も実は専海のところに伝わっていました。これは以前は親鸞聖人の直筆であるといわれておりましたが、最近の研究に依りまして、親鸞聖人の直筆ではなくて専海が筆写したものだといわれています。親鸞聖人は法然上人の門下において専修念仏を正しく理解された時、『選択集』と法然上人の御絵像を写すことを許されました。それと同じように、親鸞聖人は、浄土真宗の教えを受け継いだ門弟に『教行信証』の書写と、ご自分の絵像の作製をお許しになったと考えられます。専海は親鸞聖人から信頼を得て、この二つの書写を許されたと想像されるのです。

 この専海の後が、円善・信性・如導と次第していきます。この如導と信性の系統が、越前に入ってくるわけです。この信性の子供に長松と長若と二人の方がいまして、長松丸が、超勝寺、長若の方が、本覚寺となります。それから如導の方は、道性・如覚というふうに分かれますが、道性の系統が横越、如覚の系統が鯖江の誠照寺の系統となります。こういうわけで三河の高田門徒の傍流ではございますが、如導などの教線が、本願寺の教線が入る以前に、展開をしておったわけです。

 そこで覚如上人が、本願寺を中心にして、全教団の統合を計られましたときに、高田門徒の傍流ではありますが、越前の国ですでに大きな地盤を築いておりましたところの、如導の元を訪ねて、『教行信証』の伝授をされたり、あるいは「鏡の御影」を御開帳されるわけです。ではいったいこの如導はどういうお方であったのかということですが、如導が書いたといわれています本に、「愚闇記返礼」というのがあります。この書名が示すように、すでに「愚闇記」という本がありまして、それに対して反論をした本であります。そこでこの「愚闇記」という書物でありますが、同じ越前の鯖江の天台宗の寺院で、長泉寺の別当の孤山隠士が書いたものです。その内容は愚かで物事に暗いという字が示すように、この越前を中心として展開しております浄土真宗や、その他の諸仏教につきまして、二十箇条の項目を挙げて批判をしています。その中でもおもに批判の対象になりましたのが、如導を中心にします門徒がやり玉に挙げられています。この本は上下二巻に分かれているものの、現在はその上巻だけしかのこっておりません。「愚闇記返礼」から推察しますと、どういう本であったかということがほぼわかるわけです。その中で、孤山隠士は念仏宗を批判しております。

 まず一つには浄土真宗の僧侶方も門徒の人も「阿弥陀経」を読まない、また「六時禮讃」を読誦しない、専ら「南無阿弥陀佛」を称え和讃をしきりに唄っている、これはけしからんことだと言っております。さらに肉食妻帯をして、破戒行為をしていると批判しております。そして浄土真宗のお坊さんは袈裟・数珠を用いず、衣は着れども袈裟を掛けず、衣の下に、色小袖をつけ、俗服をまとい、その上に衣をつけておるということも指摘しております。そのほかに、人が亡くなっても卒塔婆を建てず、追善のための供養をせずとか、禁忌(タブー)を守らないというような事が、聖道門の孤山隠士から批判を受けています。それに反論したのが、「愚闇記返礼」であります。そこで「愚闇記」の中に指摘するように、如導上人を中心にいたします越前の門徒方は和讃を称えることを大切にしていたようであります。こうしたところから「讃門徒」と呼ばれるようになったわけです。現在は三門徒と書いておられますが、あの三は和讃の讃に通ずるものであります。

 それから讃門徒では秘事を行っていたのではないかということが言われております。如導上人自体が、秘事を行っていたということが戦国時代の書物に書かれております。それは顕誓というお方が書いた「反故裏書」という本です。この顕誓は蓮如上人の四男で加賀山田の光教寺を継がれた蓮 の子であります。それは本願寺の第十代の証如上人の時でして、戦国時代の真只中であります。この時代に加賀の門徒が、大一揆・小一揆とわかれて内紛があり、その事件に連座して、この顕誓は証如上人からおしかりを受け、播州赤穂の本徳寺に蟄居します。この顕誓が書いた「反故裏書」に、当時の教団の状況とか歴史を書き留めています。その中に越前の国の如導について次のように書いています。

 「如導は、最初覚如上人から『教行信証』の講義を受けた。ところが覚如上人がお帰りになったのち、秘事法門をたてた。、それを聞かれた覚如上人は大変きびしく批判なさった。それを聞いた如導は起請文を書いて、決して今後はこうした秘事の新義は申しませんと誓約書をいれて、後悔したけれどもまた秘事を唱えたので皆が迷惑をした。そこでついに覚如上人から破門をされた。その後道性・如覚という二人のお弟子も如導上人が唱えたその秘事法門を受け継いだ、その秘事は讃門徒拝まずの衆といわれた」と記しています。

 このように如導一門の秘事は不拝秘事であったらしい。秘事法門の場合は善鸞様に結びつけるケースが多いのですが、この讃門徒も善鸞様と結びつけているようであります。これはご承知のように、善鸞事件が発生したときに善鸞様は東国で自分一人が親鸞聖人からこっそり正しい教えを受け継いだのであると主張されたわけです。如導上人は越前の国で秘事を唱えたということを「反故裏書」で申しています。ただこの「反故裏書」の記事については、どうも信憑性が低いと言われております。というのは、「反故裏書」は如導上人がなくなって、二百五十年ほどたってから編集された本です。ところが如導上人から百年ほどたって、讃門徒の中で、秘事的な傾向がでてくるようでして、それをさかのぼって、如導上人にその秘事を結びつけたのではなかろうかと思われます。だいたい秘事的な考えが讃門徒の中からでてきますのは、大町の専修寺、この寺は如導上人がおられたお寺でありますが、この専修寺から専照寺という寺が分立致しまして、この専照寺から浄一という方がでられました。この浄一の時代にこの秘事が提唱されたのではなかろうかと考えられます。これは如導上人がなくなって、百年たった後の事です。従って、如導上人の時代はそうした秘事ではなくして、和讃を称えることを特徴としたところの教団がこの越前で展開しておったのではないかと考えられます。その如導の後に越前に真宗諸派といわれる教団が展開してきています。