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九十二 よろこびすでに近づけり 「覚信房」

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法悦百景 深川倫雄和上

八十一 行動の人 「足利 源左」
八十二 案ずるな 「浅原 才市」
八十三 仏恩深重 「親鸞聖人」
八十四 触光柔軟 「萬行寺 恒順」
八十五 おぼえている 「九条 武子」
八十六 自宗の安心 「満福寺 南渓」
八十七 忘れはてて 「親鸞聖人」
八十八 おぼつかない足 「九条 武子」
八十九 真の仏弟子 「善導大師」
九十 泥華一味 「浅原 才市」
九十一 睡眠章 「蓮如上人」
九十二 よろこびすでに近づけり 「覚信房」
九十三 表現の背後 「蓮如上人」
九十四 鍛えられざる精神 「無量寿経」
九十五 愚者の宗教 「鈴木 大拙」
九十六 念仏は感謝 「親鸞聖人」
九十七 冥から冥へ 「無量寿経」
九十八 今日の生 「九条 武子」
九十九 絶対絶命 「尾崎 秀実」
百 百代の過客 「松尾 芭蕉」
ウィキポータル 法悦百景

よろこびすでに近づけり 存せん事 一瞬に迫る
刹那のあいだたりというとも 息の通わんほどは、
往生の大益をえたる仏恩を 報謝背ずんばあるべからず
と存ずるについて かくのごとく 報謝の称名つかまつるものなり
               (太郎入道 覚信)

正念

 覚如上人は、御開山さまの曾孫である。その『口伝鈔』につたえるところ。

 覚信房は、京都で重病になった。晩年の御開山聖人のお宅である。臨終の覚信房、お称名おこたりない。息は荒い。苦しげの中に、念仏強盛なるは神妙である。ただし、心持に不審あり。いかに、と聖人がおたずねになった。覚信房が答えたのである。もうすぐです。広大な御恩でございます。息引き取るまでお礼を称えます。このとき聖人、年来の友として、一緒にすごした甲斐があった、と御感のあまり、随喜の御落涙、千行万行なり。

 一般にどうしても抜きがたい考えは、臨終の正念である。死に際は静かであり、お称名したり、笑ったりすると、いい往生であったという。全然不可。

乱想

 当人も看病人も誤っている。死に際がよいと看取りの人が安心しているだけである。問題はその人の人生である。平生である。死に際、一瞬の乱想など、当然いろいろある。当人も看病人もそれぞれ人生、平生が問題だとせぬから、死に際をたのむ。一生乱想のみ。臨終の正念で帳消しにしようとは、浅ましい。

(昭和四十三年六月)