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九十三 表現の背後 「蓮如上人」

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法悦百景 深川倫雄和上

八十一 行動の人 「足利 源左」
八十二 案ずるな 「浅原 才市」
八十三 仏恩深重 「親鸞聖人」
八十四 触光柔軟 「萬行寺 恒順」
八十五 おぼえている 「九条 武子」
八十六 自宗の安心 「満福寺 南渓」
八十七 忘れはてて 「親鸞聖人」
八十八 おぼつかない足 「九条 武子」
八十九 真の仏弟子 「善導大師」
九十 泥華一味 「浅原 才市」
九十一 睡眠章 「蓮如上人」
九十二 よろこびすでに近づけり 「覚信房」
九十三 表現の背後 「蓮如上人」
九十四 鍛えられざる精神 「無量寿経」
九十五 愚者の宗教 「鈴木 大拙」
九十六 念仏は感謝 「親鸞聖人」
九十七 冥から冥へ 「無量寿経」
九十八 今日の生 「九条 武子」
九十九 絶対絶命 「尾崎 秀実」
百 百代の過客 「松尾 芭蕉」
ウィキポータル 法悦百景

さて 自然(じねん)の浄土に いたるなり
ながく生死(しょうじ)をへだてける
さてさて あら おもしろや おもしろやと
くれぐれ 御掟ありけり
                (蓮如上人)

 文書というものは、心持を伝える力に限界がある。手紙より電話の方が良い。信仰において殊にそうである。この会報も、私を知らない方には、ぴんと来まい。文書が万全でないことは、承知しておくがよい。蓮如上人を去ること五百年である。われらは御文章などで接する外ない。上人のお説教をじかに聞き見てはいない。

 お説教は顔と声に接して聞かねばならぬ。このぎこちない世界から自然(じねん)の世界にゆくのである。自然とは、無理なことをいう。朝から晩まで無理の連続である。それが生死の世界である。何もかも無理から無理のこの世である。この生死の世界から永遠に、へだたるのが信仰である。生死(まよい)のこの世にありながら、それをへだてて無理のない浄土へ至る道を歩む。それが念仏である。

化(け)

 蓮如上人は、大きく深く弥陀の救いを仰がれた。残されたお言葉は、信心をとれ、弥陀をたのめ、うかうかするな、というのが多い。われらに向けての教化である。しかし上人自身は、ほれぼれと弥陀を仰いだのである。下を化する後ろに上を仰ぐ態度があった。

 態度は残らない。問題は態度だ。

(昭和四十三年七月)