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教行証文類のこころ/第二日目-2

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講義録で、第二十二願は3種類の読み方があるとされる3種類の読み方。

「原漢文」

設我得仏 他方仏土 諸菩薩衆 来生我国 究竟必至 一生補処
除其本願 自在所化 為衆生故 被弘誓鎧 積累徳本 度脱一切 遊諸仏国 修菩薩行 供養十方 諸仏如来 開化恒沙 無量衆生 使立無上 正真之道
超出常倫 諸地之行 現前修習 普賢之徳
若不爾者 不取正覚

当面の第二十二願文の読み方

第二十二願文の当分では、究極的には一生補処に至らしめる。しかし、来生者の本(もと)の願いとして十方の衆生を済度していこうといういう者は、一生補処から除外して、その願いの通りにさせてやろう、というのである。中村元の「浄土三部経」(岩波文庫)の『無量寿経』では、サンスクリット語と漢文を対応させて以下のように読下している。除其本願以下の文はすべて除外例となっている。
なお、ここでの本願とは、願生者が懐いていた、本(もと)の願いであって、阿弥陀仏の本願ではない。〔〕内は私に於いて付した。

たとひわれ仏となるをえんとき、他方の仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生せば、究竟して必ず一生補処に至らしめん。
(ただし)その本願〔願生者のもとの願い〕、自在に化せんとするところの、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被(かぶ)り、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方のもろもろの仏・如来を供養し、恒沙の無量の衆生を開化して、無上正真の道に(安)立せしめ、常倫の(菩薩)に超出して、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せんものを除く。
もししからずんば、正覚を取らじ。

『浄土論註』での読み方

「浄土論註」では、超出常倫の前までが除外例であるとして、以下のように読んでいる。

「たとひわれ仏を得んに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生せば、究竟してかならず一生補処に至らん。
その本願〔願生者のもとの願い〕の自在に化せんとするところありて、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊びて菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道に立せしめんをば除く。
常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。
もししからずは、正覚を取らじ。

曇鸞大師は、何ゆえに未証浄心の菩薩が浄土へ往生し、多くの劫数を経るべき時を飛び越えて八地以上の菩薩に成りえるのか、という問に答えるために第二十二願を出された。「超出常倫」の句の前までが除外例であると読み、最初の文と最後の文を結びつけた。
そして、浄土では菩薩の階位は娑婆のように一地から一地に順次に至るのではなく、「常倫の諸地の行を超出」するから即等に八地以上の菩薩になり、普賢の徳を修習するのだとした。曇鸞大師は第二十二願は、浄土での速やかな菩薩の階位の向上を誓った願であり、一生補処を誓った願であるとみられていたのである。ここでは還相を誓った願だとはみておられない。この速やかであることを各種の譬喩をあげて説明し「非常の言は常人の耳に入らず」と結論されている。
なお、ここでも「その本願」の本願とは願生者の本の願いという意味である。#P--133

御開山の読み方(証文類)

御開山は、この曇鸞大師の除外例の文のまま以下のように読まれた。 その理解の元となったのが『論註』の「覈本釈(覈求其本釈)」であった。

たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。
その本願〔阿弥陀仏の本願〕の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。
常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。
もししからずは、正覚を取らじ。

ここでは、阿弥陀仏の本願によって、第十八願の「念仏往生の願」により浄土へ往生し、第十一願の「必至滅度の願」によって仏と成り、第二十二願の「還相回向の願」によって「常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習」する、衆生済度の還相回向をなさしめられるとする。