預かったいのち みんなの法話
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預かったいのち
本願寺新報2000(平成12)年5月20日号掲載
本多 静芳(ほんだ しずよし)(武蔵野女子大助教授)
命を殺し食べる毎日
え.秋元 裕美子
中学一年の時、「握りつぶそうとした蝿を逃がしてやった」と日記に書いたら、担任から「君は優しい」と言われました。
でも、今考えると、優しいから逃がしたのではありません。
私には残酷なところがあったし、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の話を聞いていて、「あわよくば助けておけば...」と、自己中心的に考える私だったからです。
しかし、本当は、みんな仏の子で「共に預かったいのち」だと教えてもらっていたから、つぶせなかったのですね。
もし、いのちが「自分のもの」なら、比較して自分のいのちを他よりも大切にします。
害虫だから役に立たない、都合が悪いと軽視して殺せます。
しかし、同じいのちならば、自分が踏まれれば痛いし苦しいし、それと同じように相手も痛いだろう、苦しいだろうと共に大事にできます。
ところが、私は毎日食事をします。
多くのいのちを殺して食べています。
それを教えてくれるのが「いただきます」という言葉です。
あるお寺の幼稚園児が、「ぼくの家は給食費を払っているから、いただきますなんて手を合わせなくてもいいんだ」と言って、幼稚園の先生を困らせたそうです。
園長の住職さんは、「この子のお母さんは大学を出ていますが、最近は大学までにこんなことさえも学ばないんですね。
実は私たち一銭も払っていないんです。
確かにお金を払ってますが、それはお米やお魚、お肉を扱う人間の手間賃と経費です。
私たちは豚さんたちには一銭も払ってません。
海に行ってお魚に餌をやってません。
だから、ごめんなさい、あなたのいのちを殺していただきますと言うのです」と教えてくれました。
お金を払えば都合のままに殺していいと言うのなら居直りです。
「ごめんなさい」と謝らなければならないのは私のほうです。
仏さまのみ教えに生かされるとき、「いただきます」「ごめんなさい」という生き方が恵まれるのです。
善人ぶる私に気づく
山崎まどかちゃんは小学六年の時、牧場に行き、「ごはんの時に」という作文を書きました。
「人間は生きるために鶏も殺さなくちゃいけないし、豚も殺さなくちゃならない。
生きてるっていうことは、ずいぶん迷わくをかけることなんだ。
自分で自分のこと全部できたら人は一人ぽっちになってしまう。
他人に迷わくをかけるということは、その人とつながりをもつことなんだ。
他人の世話をすることは、その人に愛をもつことなんだ。
生きるっていうことは、たくさんのいのちとつながりをもつことなんだ。
お乳(ちち)をやった私にあたたかい体を押しつけてきた子牛のことを私は思った」
また、七十歳過ぎの社長が、「私は迷惑を受けたが、迷惑をかけずに生きてきた。
これからも迷惑をかけずに生きていく」と新聞に投書していました。
でも、何か白けてしまうのはなぜでしょう。
「お恥ずかしいが、なかなか誠実に生きられません」という謙虚な人に、私もそうだという思いと同時に、その人の誠実さを感じます。
自分を正当化し、善人ぶり、被害者と思っている人は自分の姿がまるで見えていないのに、まどかちゃんや、お恥ずかしいと言われる人たちは、他のいのちに迷惑かけたりしながらも、生かされていることを実感し、その深い気づきの姿が、逆に善人ぶっている私に半生と共感を促してくれるのでしょう。
「私は立派に誠実に生きている」という人にうさん臭さと不誠実さを感じるのも、実は自分の姿をその人を通して知らされるからです。
いのちの大切さを知る
武蔵野女子大学の近くに親鸞さまの教えに生きる高史明(コサミョン)さんという作家がおられます。
中学一年の一人息子を自死で亡くされ、やりきれなさと悲しみの中で『歎異抄』を読み直し、ご法話を聴聞されました。
そして「中学になったのだから迷惑かけずに生きろよ、と言った自分の言葉が息子を殺したのだ」と言われました。
もうお気づきでしょうが、出来ないことを押しつけていたのです。
高さんは「中学になったのだから、迷惑かけずに生きていけない自分にそろそろ気づけよ、と言ってやるべきだった」と、深い言葉を語られました。
仏さまは、不殺生戒(ふせっしょうかい)を説きます。
これは命令や知識ではなく、生活習慣を恵むものです。
朝、お参りする人は、毎朝お参りする生活を恵まれます。
同じように、いのちあるものを大切にする人は、いのちの大切さを身にいただきます。
食前の「いただきます」は、たとえ気づかなくても、いのちをいただき、殺していることを私に呼びかける言葉です。
「いただきます」と手を合わす生活では、「飯(めし)を食う」などと言えなくなります。
「いただきます」は、二度とない、誰も代われぬ我がいのちといのちある全てのものを共に大切にする生き方を恵んでくれています。
お金を払っているから食べて当然、という生き方を子どもに教えていれば、殺して申し訳ないことをしているという実感は育ちません。
いのちに響くことが仏教的な恵みです。
毎日の生活の中で合掌し、如来さまのお名前を称(とな)え、聞き、私の姿を照らされる報恩の生活の大切さを、親鸞さまはお教え下さいました。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |