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間違いのない道 みんなの法話

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間違いのない道
本願寺新報2002(平成14)年6月10日号掲載
佐賀・超光寺住職 藤永 弘真(ふじなが こうしん)
もがけばもがくほど
浄土真宗のお念仏の道は、他力本願のお救いです。
これは、決して間違いのない道という意味です。
しかし、私たちは、つねに間違いが多く、愚かな姿で生活をしています。
だから、如来さまが、「間違いないぞ、救いの道は完成したぞ」と、よびかけて下さっても、なかなか心が定まりきれないでいるようです。

そして、何とか自分の手で阿弥陀如来をつかもうと、もがいているように思います。
もがけばもがくほど、不安な思いを募らせてしまっていくわけです。

あるお同行さんの言葉です。

「ちょっと、むつかしかなたぁ」

方言ですので翻訳しますと、

「とっても難しいですね」とでもなりますか。
そのいきさつは、孫と一緒に家のお仏壇にお参りをしている時に、尋ねられたそうです。

「おばあちゃん、仏さまは本当にいると?」

「どこにいると?」

「何をしていると?」

「どんな人?」

好奇心旺盛な子どもから質問を受けて、返答に困っているおばあちゃんの姿が、目にうかびます。

言葉で説明できずとも
実は、私も時々返答に困ってしまうようなことを聞かれることがあります。
ある家庭の法事のお斎(とき)の時に、
「ごいんっさん(ご院さん)、あなた本当に極楽を信じていますか。
本当ですか?」


ギクッとしてしまいます。
とっさにうまく返答ができずに、自分の勉強不足を反省するばかりです。


孫への返答に困っているおばあちゃんも、だからといって、仏さまのことをまったく知らない、ということではないのです。
ただ、人にうまく言い表すことが、とっても難しいということなのです。

例えば、大好物のバナナ一つでも、バナナを知らない人に説明をするのは大変です。
甘さがあり酸味もあり、独特のよい香りがしてなどと、たくさんの言葉を並べても、バナナにはなかなか近づきません。
しかし、誰でもひと口食べたら、あのおいしさを味わうことができます。

たとえ、仏さまのことを大好きで、親鸞さまも大好きな人が、うまく言葉で説明ができないとしても、まったく嘆くことはないのです。

逆に言えば、阿弥陀如来のお慈悲は、言葉に言い尽くすことができないほど尊いのだ、ということができるのです。

そのお慈悲は、どこかではたらいているのではなく、すべて私の上にはたらいて下さっているのです。

自分の身の上に、お慈悲のはたらきを味わっていくことが尊いことなのです。
身の上に味わうとき、み教えにうなずき、そして、お慈悲を喜んでいくことができるのです。

私の欲が深いほどに
善導大師のみ教えに「一つには、わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる。
二つには、阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂(おさ)め取ってお救いくださると、疑いなくためらうことなく、阿弥陀仏の願力におまかせして、間違いなく往生すると、ゆるぎなく深く信じる」(現代語版『教行信証』172頁)とあります。

私の身の上は、仏に成る可能性もない身であると言われます。
ほったらかしにされていたら、多分手を合わせることもなかっただろうと思います。
まして、如来さまのお名前を口にすることは、まずなかったでしょう。

人を傷つけるためには、教えられなくても、手や口は働きます。
どこでおぼえたのか、人さまの悪口は、油断すると口から流れ出してしまいます。
それを反省するどころか、時を忘れて楽しんでしまうという有り様です。

そのような私が、手を合わせ、如来さまのお名前を口に出させていただいている。
これは、私たち如来さまのお慈悲の中に暮らしていると味わってよいのではないかと思います。

言葉ではうまく言い表わすことができなくても、自分の身の上に阿弥陀如来のはたらきを感じてゆく、これが大きな喜びとなって日々を暮らしてゆく道が開けていると思います。

もう一つ、近くのお同行さんのことを紹介します。
最近はやっている高額の宝くじがありますが、これをお仏壇に置いておられたそうです。
朝夕お参りのたびごとに、その宝くじが目に入ってしまい、とうとう当選発表の日まで気になって目から離れなかったということです。

「お仏壇にあんなものを置いたらいけませんねえ、毎日自分の欲が深いことを思い知らされたようでした」と、笑いながらお話して下さいました。

お浄土は限りない光の世界(無量光明土)と聞きます。
光がはたらいているから闇が破られるのです。
その影が濃く見えるのは、光が強くはたらいている証拠です。
私の欲が深いから、阿弥陀如来が深く心配して、限りなくはたらいて下さっているのです。

お浄土の光が私たちのところにとどいて下さっている。
私が間違いないようになるのではなく、欲の深いままの私を阿弥陀如来のお慈悲が包んで下さっていることに気付いてゆく。
そのようなご縁こそ宝物だと喜んでいます。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/