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自力の念仏そのまんま 他力とわかる時がくる

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木村無相(きむらむそう)師は、1924(大正13)年満20歳の秋、ある出来事を機に自己内面の醜(みにく)さに驚き、「ああ、この煩悩(ぼんのう)を断じて悟(さと)りが開きたい」と思い立った、と求道(ぐどう)の動機を語られています。

 その後フィリピンに渡り、働きながら日本から本をとりよせては、自己の助かる道を暗中模索(あんちゅうもさく)し、「自分の助かる道は仏教の中」との見当をつけて、満29歳で父母もすでに亡くなってしまった日本へと帰国されます。以来40年近い求道聞法(ぐどうもんぽう)の歳月を経(へ)て「ナムアミダ仏とおいただきするほかはない」と、ついに他力念仏一つに帰依(きえ)されたといわれます。

 往生(おうじょう)される10日前、師は入院を見舞われた岩崎先生にたいして、「体力も気力もない、ナムアミダブツと称える力がない。胸に来てもそれからがしんどい。お念仏一つというけれど、われわれの称(とな)える念仏とか、称名(しょうみょう)はこれまた、そらごとたわごとみたいなもので。ただこんなものに、念仏衆生(ねんぶつしゅじょう)、摂取不捨(せっしゅふしゃ)というか、如来の御目(おんめ)がとまったということ、そしてただ念仏せよという仰(おお)せがふりかかっておる。それだけで充分だったなあ」と語っておられます。

 さらに、病床(びょうしょう)中のメモには「病(や)みふかして重湯(おもゆ)もノドに通らねど、ただ念仏のあるがうれしき」「聞いても読んでもなにものこらぬ、そのまんま、ナムアミダブツ、ナムアミダブ」など、多くのよろこびのうたが残されています。

 親鸞聖人は、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』下々品(げげぼん)の文を、『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』に、 「汝若不能念(にょにゃくふのうねん)」(観経)といふは、五逆(ごぎゃく)・十悪(じゅうあく)の罪人(ざいにん)、不浄説法(ふじょうせっぽう)のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀(みだ)を念(ねん)じたてまつらずは、ただ口(くち)に南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)ととなえよとすすめたまへる御(み)のりなり。これは称名(しょうみょう)を本願(ほんがん)と誓ひたまへることをあらはさんとなり。(註釈版聖典716頁) と解釈されています。また、『歎異抄(たんにしょう)』には「娑婆(しゃば)の縁尽(えんつ)きて、ちからなくしてをはるときに、かの土(ど)へはまゐるべきなり」(『同』837頁)というお言葉もあります。

 これによって、仏は「口に南無阿弥陀仏と称(とな)えよ」と願われながらも「いかに罪が深くとも、たとえ病苦にあって御名(みな)を称える力も失い、今生(こんじょう)を終わることがあったとしても、臨終(りんじゅう)のありようとは一切かかわりなく、平生(へいぜい)の信心を因(たね)として浄土に生まれさせよう」とまでお誓いくださっている床深きお慈悲のこころを読み取ることができましょう。

 まことに「大非大願のたのもしさ」を感佩(かんぱい)せずにおれません。


貴島 信行(きしま しんぎょう) 1951年、大阪生まれ 真行寺住職・龍谷大学講師・中央仏教学院講師・本願寺派布教使



本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。