彼岸に想う-人生の縦糸 みんなの法話
提供: Book
彼岸に想う-人生の縦糸
本願寺新報2008(平成20)年3月10日号掲載
福岡・永照寺副住職 村上 慈顕(むらかみ じけん)
他の人には内緒にして
今年も早、春のお彼岸の頃を迎えました。
真西にしずむ夕日に西方浄土を想い、今は亡き方々の懐かしい笑顔が思い出されます。
私が初めて盆参りをした時、あまり声がでない私の背後から大きなおつとめの声で勇気をくれたあのおばあちゃんも、お寺の木を必死に育ててくれたあのおじいちゃんも、そして酒の申し子と言われたあのおじさんも・・・お浄土に参りました。
さびしくはなりましたが、たくさんのお育てをいただきました。
昨年の十一月、長年お寺を支えてくださったMさんという女性が八十二年の生涯をまっとうされました。
末期がんでした。
病気の現実を受けとめ、力強く生きておられました。
療養中にもかかわらず、私の結婚式にも出席してくれたし、法座は全座、聴聞を欠かすことのない方でした。
亡くなる半年前、「昨日は抗がん剤を打ったから、きつくて動けんかった」と言って、申し訳なさそうに、一日聴聞を欠かしたことを悔いていました。
「若院さん、実は私末期のがんなんよ。
他の人には内緒にしとって」と言われたのが三年前。
その間、一緒にさまざまなご法義の話をさせていただきました。
容体が悪化して入院したのは昨年の九月でした。
「私は生きているんやない。
生かされとると思っとるよ」
忘れられない言葉です。
念仏のみぞまことにて
最初にお見舞いに行った時、お花を持っていきました。
私からみれば何の変哲もない花でした。
Mさんは「わぁ、きれいな花やね」と何度も言いました。
お見舞いに来る他の人にも、「お花がきれい、お花がきれい」と何度も言っていたそうです。
ひと月ごとに仏さまの言葉が書いてある「法語カレンダー」を一日に何回もめくるのが病院での日課だったそうです。
二回目のお見舞いに行ったときには、鼻にチューブをしていました。
話すのも精いっぱいやのに、「お花きれいやったよ。
お花きれいやったよ。
ありがとう」と何度も繰り返しました。
涙が溢(あふ)れそうになったので、「また来ます」と言って病室を出ました。
それが人と人、として交わした最後の言葉でした。
今考えれば、花の見え方が違っていたのかもしれません。
私は無意識のうちに「見たいときにいつでも見られる」と思いながら花を見ていたのだと思います。
Mさんは「これが最後かもしれない」と思い、目に焼き付けるように花を見ていたのでしょう。
私にとって何ごとも不思議のない世界が不思議に感じる視点を恵まれていたのかもしれません。
残された人生で、たよりとなるもの。
それを仏さまの言葉と信じ、何度もカレンダーを読み返していたのでしょう。
月に一度めくるのでなく、何度も何度も心に刻み込むように読み返していたのです。
人として最後に聞ける「仏さまの言葉」を・・・。
『歎異抄』の後序(ごじょ)に「煩悩具足の凡人、火宅(かたく)無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」というお言葉がありますが、「念仏のみぞまこと」ということを私が最もリアルに感じた出来事でした。
金や名誉は人生の横糸
織物を織る時、縦糸がしっかりしていないと丈夫な布ができません。
お金も、地位も、名誉も大切ですが、持って死ねるわけでもないし、不変でもありません。
人生の横糸ではあっても縦糸にするには危なっかしい感じがします。
縦糸はビシッと動かないものでなくてはなりません。
時代も国も超えて揺るぎなくあるものでなくてはなりません。
それは「南無阿弥陀仏」です。
Mさんの死を通して、ますますそう思うようになりました。
そのはたらきは、引力や空気や命のつながりのように目には見えないけれど、さまざまな経験を通して肌で感じることができるようになるのではないでしょうか。
今までお寺に興味のなかったご長男が、お嫁さんと一緒におつとめをし、法座にもお参りいただけるようになりました。
お念仏を縦糸に生きたMさんのうれしそうな顔が浮かんできます。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |