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浄土への道は 彼方ではなく 私の足元にある

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お釈迦様は、マガダ国王妃のイダイケ(韋提希)に次のように仰せになりました。

 そなたは知っているだろうか。阿弥陀仏はこの世界からそれほど遠くないところにおいでになるのである。だからそなたは思いを極楽世界にかけ、清らかな行を完成して仏になられた阿弥陀仏をはっきりと想い描くがよい。 『浄土三部経(現代語版)』163ページ

 『仏説観無量寿経』に説かれる言葉ですが、阿弥陀仏の極楽世界を浄土と申します。詳しく言えば清浄国土です。清浄とは穢れがないということです。穢れとは人間の欲のことです。親鸞聖人は、『弥陀如来名号徳』に阿弥陀仏の清浄な光のはたらきについて次のように記されます。

よろづの有情の汚穢不浄を除かんがためのひかりなり。婬欲・財欲の罪を除きはらはんがためなり。 『註釈版聖典第2版』729ページ

 欲のない人はいません。生まれたときから欲があります。まず食欲、これがないと生きていけません。次に睡眠欲。しかし、この二つの欲望は人間が肉体を持つかぎり決して無くすことのできないものです。ですから、節度をもって満たすならば罪とはなりません。しかし、婬欲(性欲)と財欲、加えて名誉欲は肉体維持に絶対必要なものであるとは言えません。むしろ、悟りを開くことの妨げになるものであり、その三つの欲を満たそうとして人間は苦しみ、罪を犯すのです。

 食欲と睡眠欲は他の人と関係がなくとも満たすことのできる欲ですから、罪を犯しにくいのです。ところが、性欲はどうでしょうか。対象となる人がいます。近年日本では性犯罪が増加していますが、これも被害者の幸せを考えない結果起きていることです。また、財欲や名誉欲は人間社会がなければ満たす意味もない欲望です。

 アジャセ(阿闍世)やダイバダッタ(提婆達多)の罪は実に財欲や名誉欲から行った結果としてあるのです。しかし、それはアジャセやダイバダッタだから起こしたのではなく、何かのはずみで、私たち人間すべてが起こし、犯してしまう罪でもあります。だからこそ、阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏(名号)を私たちに施され、命終わると同時に穢れなき浄土へと往生させようとされるのです。

 浄土への道は、教えを聞くことのできる今ここにこそあるのです。


北塔 光昇(きたづか みつのり) 1949年、北海道生まれ。 本願寺派司教、旭川大学非常勤講師、北海道旭川市正光寺住職。



本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。