他力の信の特色
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他力の信の特色
もう始めましょうか。 浄土真宗と言う事は、一口で言うたら、この他力の信心という事、これで全部通ずるんです。これでもう金部おさまる。 その他力の信心という事で全部通ずるという事はね、蓮如さんかおっしゃっとるんですね『御一代聞書』に御座いまね、「浄土真宗は、他力の信心、他力の信心と言いさえすれば間違っておらない。」と、こう言う事を言われてますね[注7]。
この通りです。ところが、一般に言われている信心は、他力の信心じゃないんです、こっちが信心するんですから。 キリスト教でもそうですね、やっぱりこっちが信ずるんですから。ですから、一般に言う信心は皆思い込む信心、確信する信心を言うんです。ところが、浄土真宗の信心は、思い込むと言う様な信心とは全然違うんです。
そうするとどうかと言うと、他力の信心についてはね、三つの性格が考えられるんですね。この三つの性格は、世界中のどの宗教にも通じませんし、一般の仏教にも通じません。親鸞聖人だけなんです。ですから、これを明らかにせんと、他力の信心が解らんようになります。ところが、これが明らかになるとね、世界中どこへ行っても、浄土真宗ということが通ずるんです。
イ 信順性 「そのまま」ということ
その真宗しか言えない特色、他力の信心の性格の第一番目はね、漢字でいきますとね、「信順性」という事です。「性」はつけんでもええけど、信順でもいいんじゃけど。 とにかく信順という事は、「そのまま」という事です。ところが、「そのまま」いうても、「そのままじゃから何にもせんでもええ」という事になったら、これは横着という事です。横着とそのままは違うんですからね。
「そのまま」をね、一生聞かせてもらうんですけど、大体は、その「そのまま」がそのままにならんのですからね。「そのまま」が「わがまま」になると、これはどうにもならんね。そこで、「そのまま」いうたらね、どう「そのまま」かいうたら、「与えられたそのまま」ということです。 与えられたそのままで、こっちが手出しをせんのです。それで、さっきいうたね、越後の良寛さんの歌では「他力とは野中にたてる竹なれやよりさわらぬをば他力とぞいう」という。こっちから手出しせんという、こっちから手を加えたらあかんという意味ですね。
ところが、信ずるいうたら大体皆わしの方から信ずると思うんですね。ですから、西洋の言葉ではね、世界中というてもええんですが、信ずるというたら神様を信ずる場合には、たった一つしか無いんです。これ、英語でもフランス語でもドイツ語でもラテン語でも、辞書引くと全部一つしか無い。たとえば、英語では「faith」(フェイス)というね、ギリシャ語ではこれ「hides」(ヒデス)と言いますね。
ところが、これ辞書引きますとね、どれも確信すると言う意味なんです。確信するというたら、絶対に間違いないと思い込むと言う意味ですからね。 大概それが信心じゃと思うてます。ですから信ぜられんと言うんですね。今の作家や評論家あたりのちょっと知識人でね、親鸞聖人に関心のある方がちょいちょいおりますね。 ところが、これが解らんから皆、親鸞聖人が解らんのです。親鸞聖人の場合はね、信という意味が違うんですから。何故かというたら、疑うという意味がまず一般とはちがうんです。
疑うというたら、大概まぁ何ですね、「あいつの言う事はほんまじゃろうか、嘘じゃろうか。」と、こういう場合に疑うと言いますね。 「明日は天気じゃろうか雨じゃろうか」と、こういう場合にも疑うと言うね。仏教では、これを猶予不定(ゆうよふじょう)と言います。疑うというのは、大体そういう場合に使うんですね。ですから、親鸞聖人の「疑」にも、そういう解釈の場合があるんです。「若存若亡」というのが、三不三信に出ますからね、そういう解釈もあります。ところが、親鸞聖人はね、信心のことを「無疑」と言われていますからね。「無疑」というたら、ちょっと似た言葉に「不疑」というのがあるんです。これは違うんです。
一般には、混同していますね。「不疑」いうたら、「明日は天気じゃと疑っておりません。」と言う場合ですね。明日の天気の場合じゃったら、疑っておりませんと言うね。ところが、今は雨降っとるかいね、降っとるね。この場合に、「今日雨が降っとると疑っておりません。」と言うかね。そう言う方は、手を挙げて項きましょうかい。
そういう方は、いませんね。今ロは曇っとる、今日は雨が降っとるということをね、疑っておりませんという事は無いでしょうが。ですから、「不疑」と「無疑」とは、違いますね。案外、ここの所のけじめがね、はっきりされとらんのです。
そうすると、疑っておりませんと言うことは、「疑い」の形の変ったものと言えますね。やっぱり、この場合は、「今・ここ」の話じゃ無いんです。ところが、「無疑」という場合はね、「今・ここ」のことを言うんですね。わしは、「今・ここ」におるね。 そこで、この前に座っておいでの方と、こっちの九州からおいでの方とが、ひとつ言い争いをするんです。どうかというとね、一人の方は、「わしがここに居ると思うとる。」という、もう片方の方は、「わしがここに居らんと思うとる。」というてね。「おると思う」「おらんと思う」というて、言い争ってみなはれ、二人とも頭の方を見てもらわにゃならんね、病院行って。
これ、わしがここにおるということは、思うとか思わんとか論ずる必要が無いじゃろう。そういう場合に、「無疑」というんですね。ですから、疑っていませんという「不疑」とはちょっと意味が違うじゃろ。それが解らんのですからね。それですからね、「無疑」ということはね、「決定」という言葉が略されているんです。「無疑」は、「決定無疑」ということですね。
この決定ということは、どういう事か言うと、これはね、決定しておると言う事を仏教の言葉で成就と言うね。これは、決ってしもうたという咋日の話じゃない、昨日はもう済んだ後ですからね。そうかというて、これから決るという明日の話でもないんです。明日は、まだ来ておらんでしょうが。明日が決っておるというたら、どうかというと、例えばこういうんですね。
明日は御旧跡に参りますからね、出来れば行かれたらええんですよ。東京の方でも、灯台下暗しで、かえって知らん人がいますからね。減多にこういう時でもなけりゃや行けんもんですからね。親鸞聖人の御旧跡を、明日参りますね。
こういう場合はね、明日は決っておると言うんですね。ね、そういう時は、決っておる。じゃけど、明日の話です。明日はまだこれ、来ておらんでしょうが。それから、昨日じゃったら、決ってしもうたと言う。 ところが、成就というたら、明日の話でも昨日の話でもない。未来完了でも過去完了でもない。今の決定というたら、「今・ここ」にちゃんと決っておるものに面する場合でないと言えないんです。ですから、どうですか、遇うておる場合には、思うとか思わんとか論ずる必要がないでしょうが。
そうすると、南無阿弥陀仏というのはね、何時でも・何処でも・誰にでもということになるんです。 何時でもというたら、「今」という事なんですよ。今日四時から言うたら、まだ四時になっちょらんから駄目ですね。三時まで言うたら、もう駄目じゃないか。ところが、何時でもいうたら、「今」のことです。それで、何処でも言うたらね、ここまで、伊香保温泉まで来んにゃいうたらね、大阪におっても東京におっても駄目ですね。ところが、何処でも言うたら、「ここ」という事なんです。
そうすると、「今・ここ」ですね。それから、もう一つ言うたら、誰にでもと言う事。誰にでも言うたら、今お休みになっとる方でも心配いらん。このことを、目を開けて聞いておかんにゃ。それでも、寝とる人でも心配いらん、これ、誰でもですから。しっかり聞かにゃというたら、寝とる人は駄目じゃないか。ところが、誰でもいうたら、寝とる人も皆入りましょうが。 そうするとね、誰でも言うたら、「今・ここ」の「このわし」にね、ちゃんと届いとるということです。これね、南無阿弥陀仏いうとね、聞いて届くんじゃないんです。届いておる法に遇うんじゃ。
救いの法が、聞くより先に、ちゃんと届けられとる。それがこの御姿(御本尊)の意味なんです。 それでね、親鸞聖人はね、こういう御絵像、これ御絵像と言います、それから御木像ですね、これは、あんまりお礼しとられんのです。そうかというて、高森親鸞会の様な極端な事いうても困りますけどね。親鸞聖人は、名号本尊をお礼しとられるんです。この事は、覚如さんや、あるいは存覚さんの『弁述名体紗」というのにちゃんとそう言われてます。その名号本尊にね、三種類あるんです。 「南無阿弥陀仏」と、これは西本願寺に一つしかない、「南無不可思議光仏」と、これは高田の本山に一つある八字名号、残りの五つは「帰命尽十方無碍光如来」。これの七つは、全部国宝になっちょる。国宝いうたら、本物に間違いないものという意味なんですから、この七つは、みんな御開山の御書きになったもんです。
この「帰命尽十方無碍光如来」が、御脇掛けに掛かっておりましょうが。東京の方は皆こうなっとる、広島の方は駄目ですけどね。皆このお名号が、掛かっとるでしょ。広島から九州の方は、一般の家庭に掛かっとらんのですけど、新潟の方はどうかね、こうなっとるかね。在家のお仏壇は、御影像の方が多いか。じゃったら、新潟も駄目ですね。御脇掛けには、この「帰命尽十方無碍光如来」の御名号がええんです。これはね、他の宗旨には無いんです。他の宗旨ではね、大体は御祖師さんを両脇に掛けるんです。
例えば、浄土宗でいうたら、善導大師と法然上人になっていましょうが。ですから、天台宗や真言宗でも、祖師を掛けるんが本当なんですね。ところが、浄土真宗だけなんじゃ、御脇掛けに、こういう九字と十字の名号を掛けとるのはね。これがいいんですよ。御影像でも悪いことはありませんよ。お寺がね、御開山と蓮如さんになってますから、まぁ間違いありませんけどね。このお名号が一番いいんです。
この十字の名号がまた、御開山の御真筆で一番沢山残っとるんです。 あんた方も御存知じゃろう、笠原一男っていう方がおられるでしょう。東大の先生でね、この人は歴史の先生で、とにかく親鸞聖人や蓮如さんあたりに一番明るい学者ですからね。その、笠原さんが、二~三年前にうちの親類の寺へ見えましたらね、丁寧に仏さんに御礼したんです。それでね、後から笠原さんに会いまして聞きましたら、「今年の正月に家内が死にましてなぁ。」というんです。それでね、初めて仏壇を買うたということです。奥さんが亡くなって、初めて仏壇を買うたって。 それでね、御本山から十字のお名号をいただいて帰ったというんです。やっぱり、西本願寺の檀家ですからね。新潟の方ですよ。やっぱり笠原一男はえらい、歴史学者で競鸞聖人のことをよく知っていますからね。そう言う事を知っとるからね、十字のお名号をいただいて帰ったというんです。
それで、この十字のお名号(帰命尽十方無碍光如来)と言うのは、詳しく説明するとすばらしい意味があるんです。親鸞聖人はね、この「帰命尽十方無碍光如来」は、しょっちゅう使っておいでになるんです。御本尊もそうじゃけど、どの御書きになったものを見てもね、「無碍」という事の解釈をされておられるんです。
例えば、一番最後に御書きになったんがね、八十八歳の時で、『弥陀如来名号徳』というので、これが最後のものです。この『弥陀如来名号徳』にも、「帰命尽十方無碍光如来」の説明があるんです。この「帰命尽十方無碍光如来」はね、ひろげますと十二光ということになるんです。ですから、十二光の説明をして、しまいに帰命尽十方無碍光如来におさめてあるんです。御開山の『弥陀如来名号徳』は、そうなってます。十二光というのは御存知でしょうが。「正信偈」に、「普放無量無辺光、無碍無対光炎王」というてありますね。この十二光はね、御開山の一生涯で書かれたものに八遍出てきます。解釈がね、八遍あります。これは、解釈の数としては、一番多いんです。ですから、いかに親鸞聖人が十二光という事に関心を持たれていたかと言う事が分かるんですね。
それで、この十二光、これはどういうことか言いますとね、この無碍光と言うのは、十二光金部のはたらきを縮めたのが無碍光です。ですから、無碍というのが大事なんです。その次に、無対光と炎王光というのがありますね。これは、迷いの因と果をとって下さるということなんですね。
例えば、こう言う方がいますね。わしゃこの歳まで御縁に遇うてもね、あんた方の様に歳をとっておいでてもね、まだ信心がいただけておらんと言うんです。蓮如さんは、御信心をいただかにゃ無間地獄に落ちると書いてあるが、わしゃ駄日じゃと、自分に匙を投げる入がおりましょうが。
わしの様なのは駄目じゃとね。それから、こういう人もおりますね。聞いた時にゃ、なるほどそうじゃと思うんです。 ところが、聞いた時には、そうじゃと思うても、すぐ抜けてしまうんですね。もう、これが済んだら、皆さんが上の部屋に上がる前に抜けてしまいますからね。それで御飯食べりゃ、きれいさっぱり抜けてしまうから。
これどうかね、そうじゃ思うとる時にね、暴力団やとうて、ピストルで後から撃ち殺してもろうたら便利がよかろう思うけどね。そういうわけにはいかんですね。 そうするとね、今が臨終じゃいうてもね、私には、これで間違い無いというあてにするものが何にも無いね。そうすると、わしゃ駄目じゃということになりゃせんかね。有り難いなぁという、大丈夫という思いがあると、そうすると、助かる様に思うんです。ところが、その有り難い思いや、間違いないという思いが逃げてしもうたら、又これ元の木阿弥です。何にもならん、これ。
そうすると、わしの様な者は、駄目じゃと、こちらでこちらの助かる心配をするね。この心配するのは、目を開けてしっかり聞く人がするんです。 寝とる人は、せんのじゃから。わしゃ、寝とる人は善良なと思うんです。目をあけとる人が、たちが悪いんですから。それがね、しっかり聞いて、今の駄目が駄目にならん様にと、こちらからかかりましょうが。ところが、その駄目じゃという心配が、要らん事になっとるいう事が、南無阿弥陀仏という事なんです。
あれ、十二光の一つひとつが南無阿弥陀仏いう事ですからね。無量光から以下、皆、南無阿弥陀仏いう事なんです。一つひとつ押えるとそういう事なんですよ。ですから、いまの駄目がね、よう聞かせてもろうて、間違いなくなって助かるんじゃないんですね。
ところが、皆そう思いましょうが。浅原才一の様になったら助かる様に思うたら、そうなると、才一が一番仏法を聞く邪魔者になりますからね.真似はせいでもええんですよ。才一は才一、関係無いんですから。ですから、妙好人の様にと思うたら、必ず妙好人がモデルになるから邪魔しますね。 わしはわしで、別じゃ。ですから、ああいう様になれんから駄目じゃという駄目じゃという心配は、こっちの受け持ちじゃない。これは御本願の、受け持ちなんじゃ。
それからね、その次の、清浄・歓喜・智慧光・不断・難思・無称光という六つはね、これは悟りの因と果になる。昔の学者は、ちゃんとこう言う事を解説してます。 これはどういうことか言うたらね、わしが助かる研究と言う事なんです。どうしたら助かるかという。何でも皆こっちの受け持ちにするんですから、聞いて助かろうとね。まぁ、寝とる人は、こういう研究せんけど、目を開けとるんがたちが悪いんじゃ。
どうかというと、稲城さんの訴しを聞いて大丈夫になろうとかかるんです。 こうなったら、この奴めに騙されとる、この狸の様なんにね。狸坊主と言いましょうが。騙す証拠なんです。これね、坊さんの言う事と相撲をとったら、仏法で無いんですよ。相撲とる相手が違うとるが、これ。みんなこの口草に乗せられとるんです。 こっちは、仲人の様なもんですからね。あの、結婚の時、仲人言うのがおりましょうが。仲人口いうてね、うまい事言うじゃろ。それで、すぐ引っ掛かるんじゃ。 仲人の奴めに引っ掛かったらあかんので。仲人と結婚するいうてね、聞いた事ありますかいね。いよいよになったらこれが邪魔になるでしょうが。
出光という石油会社の会長がおりましょうが。あの方は、大した人ですね。鈴木大拙さんは、あの人が育てたんですから。あの人が、経済的バックじゃったんですね。これは、大した人です。その出光さんがファンの人に、仙涯和尚と言う方がおったんです。博多の仙涯和尚というてね。
その仙涯和尚のところへね、島根県の石見大田という所の住職でね、後生の一大事が苦になって寝られん人がおったんです。 二~三年前に、わしゃ、その人のひ孫に会うたことがある。そこの住職講座に行ったら、それは、わしの爺さんじゃと言うてました。この方はね、本当に後生の一大事が、何処へ行っても、どんな和上方に会うても、解決出来んじゃったんです。 それで、履善という方に仕えておったんですが、履善師があんまりですから怒ってね、貴様の様なたちの悪い奴は、博多の仙涯和尚のとこへ行けというて言うたんだそうですね。
それで、仙涯和尚のとこまで行ったんだそうです。そうしたら、仙涯和尚のところで、上げてもろうたんだそうです。禅宗の寺ですからね。上げてもらった事は、良かったそうな。ところが、長いこと待っとったら、奥からひょこひょこと出て来たんですね、仙涯和尚が。 老僧ですからね。それで、そのお寺の住職にどう言うたかというとね、お寺の住職は命懸けで来とるんですからね、ところが、どうか言うたらね.「貴様」と言うた言うんです。 わしも口が悪いけど、仙涯和尚はもっと口が悪いんです。わしは、そんな事は言うた事無い。ねぇ、なんぽ口が悪うてもね、仙涯和尚は、命賭けで来た住職に「貴様」と言うたんですから。 それでね、「貴様、南無阿弥陀仏の他に何の不足があってここにやって来たか。と言うて、怒鳴りつけたという。 それで、さっさと奥に引っ込んでしもうたんです。それっきりで、何もない。 わしも、これやったろうかいと思うんです。これでもうやめたろうかと思うんです。これで終りや。ええじゃないですか、ね。しかし、あんた方、これどうですか。命賭けで博多まで聞きに来てね、怒られに来た様なもんです。
ところが、これが本当の善知識いうもんです。恐らくこれ、現在の真宗のお坊さんでね、これが言える方はおらん思うんです。『歎異抄』の第二章も、これと同じ事です。南無阿弥陀仏と相撲とらんで、何かいね、相撲とる相手が違うとりやせんか、皆。
坊さんの言うた事と相撲とったら、仏法で無い様になる。それで、ええじゃ、悪いじゃ言うて、点数ばっかり付けるんですから。今日の話しは良かったじゃ、悪かったじゃというてね。話しを聞いて何になるか。仏法聞かんで話し聞いて何になるか。 仏法は、話しでないんですよ。それに、点数ばっかり付ける。点数付けるの上手になっても、何にもならんじゃないか、駄目じゃないかこれ。仏法を聞かにゃ駄目じゃないか。仏法に遇うんじゃ。ところが、仙涯和尚に怒鳴られた住職は、分からんじったんですね。 しかし、これは、満点の答えですよ。蓮如さんの『御文章』は、全部そうなっとるでしょうが。『御文章』の安心は、金部そうなっとるんですよ。
ですから、『御文章』はね、一心に弥陀をたのむとありましょう。助かる・助からんは、弥陀の受け持ちじゃいう事。それが受け持ちを間違うとね、鼻の中でソーメン食へるようなもんです。やってみなはれ、今日の晩御飯の時に。どうかね、鼻の中でソーメン食べる人あるかい。 なんぼ、東京の人でも、やった事なかろう。どうかね、今日はあんまりあわてたからいうてね、うちの子供は、さっき鼻でソーメン食べたいうて、なかろうね。受け持ちが違うが、何ぼ親類関係で鼻と口が近うてもね。 やっぱり口は口で、鼻は鼻で、受け持ちが違うじゃろ。それが目を開けてよう聞く人ほど、たちか悪いんです。何を聞いとるんかね。
ですから、十二光という事は、そういう事なんです。助かる・助からんは、みな弥陀の受け持ちになっとると言う事なんです。それがどうか言うたら、全部おさめたら、無碍光ということなんです。
ところが、無碍光のまえに二つあるね。わしゃ忘れとるんじゃないんで、ちゃんと憶えておるんですから。これね、まえに二つ、無量光と無辺光というのがありましょうが。あれはね、無量光は何時でもという事なんです.それから、無辺光は何処でもということですね。それで、何時でも言うたら、「今」いう事なんです。何処でも言うたら、「ここ」いう事ですね。ところが、「今・ここ」言うたら、このわしが、自分自身がおるところという事なんです。
あんた方、どうですか、自分をさがした人は、手を挙げてもらいましょうか。さぁ、わしは、まえは向うに居ったが、今は何処に行っちょるかわからんと、言うかね。わしは、さっきまで上に居ったんじゃが、今何処へ行っとるかと、捜しゃせんで。嫁さんは何処へ行っとるか、子供は何処へ行っとるかというて捜すでしょうが。それじゃったら捜すじゃろうが、あんた方で自分を捜した人居るかいね。もしおったら手を挙げてもらいましょうか。
無いじゃろうね。捜す必要がないじゃろう。南無阿弥陀仏というのは、そういう事です。ええがね。それをね、そういうのを、死人しか関係ない思うとるから、腹が立つやら情けないやら。うちらの檀家にも、これ、死人にしか関係無い様に思うとるのが随分おるんです。それで、わしゃ口が悪うなったんです。そういう者に皆、ピシャッとやったらないかんからね。
ほんまですよ、これ。おまけにテレビでもね、人が死んだらすく仏壇をみせるじゃろ。仏壇のどこが死人に関係あるんですか。それを皆、仏教は死んだ人を拝む様にしてしもうとる。死なにゃ仏壇いらんという者までおる。仏壇は、私しか関係無い。それを、何ということか、仏教が殺されとるんです。それをまた、坊さん達も黙っとる。そんなテレビじゃったら、潰したったらええんです。腹か立って、腹が立って。のう、そうじゃないですか。
それでね、十二光の最後には、超日月光というのがありましょうが。お月さんやお日さん言うたら、どこでも満遍なく行き渡ってましょう。こいつは照らして、こいつは照らさんということは無いね。ところが、東京や大阪じゃったら、地下鉄がありましょうが。地下鉄に乗っとったら、今日の様に雨が降っても分からんね、風が吹いても分からんでしょう。ですから、お月さんやお日さんじゃったら、まだ隠れ場所があるね、逃げ場所かあるでしょうが。
ところが、超日月光いうたら、逃げ場所は無し、隠れ場所が無いという事なんです。何処におっても、救いの法が先に来とるいう事、救いの答えか先にちゃんと与えられとるという事なんです。その与えられたそれをお聞かせにあずかるから、こっちから念を押す事はいらんのですね。 「これでよろしゅうございますか。」と念を押す事はいらん。
間違いの無いものは、聞いたのがが間違い無いんじゃない。聞えた六字の法が間違い無いんですから。ですから、間違い無いものは、弥陀の方が間違い無い。それが先に与えられとるんですから、わしの方のはからいはね、置いておかにゃしょうがない。
ですから、与えられたそのままと言うんですね。これを間違うたらあかんのですよ。今日は曇っとるいうたら、曇っとるんが間違いないんじゃろ。違いますかいね。曇っとると思うとるんが間違いないのか、曇っとるんが間違いないのか、どっちかね。信心というたら、たいてい思っとるという事に力が入るね。これ、自力の信という事です。思うとるんが間違いないのと違うんでしょうが。曇っとるんが間違いないんですね。
ですから、間違いない法に遇わしてもらうという事です。何故か言うたらね、蓮如さんはね、よく証拠という言葉を使うておいでになる。 証拠という。これは、『御一代聞書』の中に何回も出ます。で、四帖目の八通の「御文章」にも、「されば南無阿弥陀仏ともうす体は、われらの往生の定まりたる証拠」と、こう書いてありますね「注8]。 これ、「さだまりたる証拠」というてありますね。
ですから、聞いて解決するんでなしに、解決の出来ている法、これ本願成就という事ですからね、それが何時でも・何処でも・誰にでも、ちゃんと届けられとるんですからね、それを聞かしてもらうんです。ですから、お聞かせにあずかったそのままと言う事、これが他力の信という事ですね。
こっちの聞いたものが間違いないんじゃのうて、聞えた法が間違いない。その間違いのない六字の法を聞かせていただくんです。ですからね、大丈夫になろうとかかるんじゃなく、大丈夫の法を聞くんです。聞いて大丈夫になるんじゃない。それを皆、大丈夫になろうとかかるから、こっちの方に力が入るんです。そう言う事がね、第一番目の特色ですね。