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泣くほどに みんなの法話

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泣くほどに
本願寺新報2000(平成12)年9月20日号掲載
直海 玄哲(なおみ げんてつ)(大阪・光徳寺住職)
悲しい話はしないで

え.秋元 裕美子
何年か前の話です。
若い女性の声で電話がありました。
お母さんがご往生なさったとの連絡でした。
まだ二十代半ばのその娘さんは、最後に「葬儀にあたってお願いがあります。
ご法話で悲しくなるような話をしないで下さい。
泣き出してしまうと止められそうにありませんから」と申されたことでした。

後日、葬儀のあと、思いのままに泣かれたという話をご家族からうかがい、私は安心しました。
泣くという行為そのものだけではなく、泣けるほどに偲ぶ思いを深めることは、彼女が以後の人生を歩む上で大切なことだと感じたからです。

子どもの頃、悲しい思い、悔しい思いをした時、自然と溢れ出した涙をとどめることができず泣きじゃくった経験を、多くの方がお持ちだと思います。
父や母から「泣いてばかりじゃわからん。
何をいいたいのか」と問われても、どうしようもなく泣くしかなかった日があるのではないでしょうか。
言葉にできない思いを、泣くという行為でしか表すことのできなかった幼い頃がありましたね。

大人になったからといって、子どもの頃に比べて悲しみも喜びも小さくなったわけではありません。
むしろ、悲しみは年を重ねるごとに深まるようにさえ感じます。
しかし、いつの間にか、悲しみに涙することに抵抗をおぼえるようになります。

この私の悲しみを我がこととせずにはいられない如来さまのおこころがお慈悲でありましょう。

木村無相さんは、

<pclass="cap2">泣くがよい
生きたえがたい日は
泣くがよい

と味わっておられます。

ご本尊を中心に営む
都市部では自宅での葬儀が減り、会館などで葬儀を営むことが増えてきました。
私たちの浄土真宗では、場所がどこであっても、位牌や遺影を中心に拝むのではなく、ご本尊を中心にご安置して通夜と葬儀を勤修します。
荘厳壇や写真がご本尊を隠してしまうような場合には、葬儀社やお世話役の方にご本尊が見えるように工夫していただくよう依頼します。

教義や儀礼の上からの解釈もあるでしょうが、恩愛の情を断ち切ることのできない私にあっては、如来さまの前は安心して泣ける場です。
式場の正面にご本尊をご安置させていただくのは、「泣いてもいいんだよ」という如来さまのおこころを示しているのではないでしょうか。

『観無量寿経』で、我が子の王子に幽閉された韋提希夫人(いだいけぶにん)が釈尊の前で思わず悲泣(ひきゅう)されたように、如来さまを中心に荘厳された空間では、はた目を気にすることなく気のすむまで泣いていいんだよ、という如来さまの声が聞こえるようです。

ところで、お慈悲は泣ける場の提供だけで終わるのでしょうか。
如来さまが、近頃はやりの癒し系ということなのでしょうか。
中国の儒教の教えでは、人が亡くなるとどれほど泣けるかが愛情の深さを示すバロメーターと考えられてきました。
喪中の思想や一周忌、三回忌のはじまりも、この儒教の考えに由来するといわれています。

親鸞聖人は、こうした中国の習わしについて、慈雲大師の言葉を引かれて「すでにいまだ世を逃れず、真を論ずれば俗を誘(こしら)ふる権方(ごんぽう)なり」(470頁)とおっしゃっています。
如来さまは、愛する者を偲ぶ営みを通して真実に誘って下さるのですね。
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命の重み 人生の深さ
私たちは、いろいろな場面で、さまざまな涙を流します。
悲しいとき、辛いときに限らず、嬉しいとき、懐かしいとき、そして私たちの思い及ばない大きなものに出遇(あ)ったときにも心動かされ、自然と涙に心洗われることがあります。

先日、葬儀のご縁に出会うようになったばかりの若い僧侶のつぶやきを聞きました。
泣いている人の姿が見えず驚いた、というのです。
通夜や葬儀の過去と現在との比較、ましてや心情のその比較は、簡単にできることではありません。
それでも、生活様式の変化や式場の多様化などにともない、少なくとも私の周りでは、確かに葬儀の形式化が進んでいるように感じます。
人間のいのちの最後に立ち会っているのだという実感が薄れてきているようにも思えます。

泣いていいんだよ、という如来さまのおこころは、同時に泣けるほどにいのちを見つめてくれよ、という願いでもありました。

私たちは、ややもすれば世間体や付き合いを優先して、いのちの重みや人生の深さを見つめる縁とすれ違っているのではないでしょうか。
いのちを見つめるとは、如来さまが私たちのいのちを見つめて下さっている眼差(まなざ)しに出遇っていくということです。
如来さまのそのご催促が自然と流れる涙かもしれません。

必ずしも通夜や葬儀に限ったことではありません。
私たちの都合中心に営まれるご法事が増える中、ひと度ひと度の法縁をなぜご本尊の前で勤修するのか、その意味を味わうことが大切でありましょう。
泣いてもいいんだよ、というおこころは、泣くほどにいのちの重みを、人生の深さを感じてくれよという如来さまの願いだったのですね。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/