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根本的な解決 みんなの法話

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根本的な解決
本願寺新報2001(平成13)年2月1日号掲載
野生司 祐宏(のおす ゆうこう)(東京・実相寺住職)
何不自由ない苦悩

え.秋元 裕美子
私たち凡夫の欲望には、限りがないといわれます。
いつもいつも何かを求めています。
それは、お金だとか地位や名誉、あるいは誰かの愛情かもしれません。
そこで、無いこと、足りないことの苦しみは、皆よくわかります。
しかし、何の不自由もないように見える人の悩み苦しみは、なかなか理解されません。
田中さんのおばあさんの場合もそうでした。

最近、田中さんは毎日毎日が不安で、夜もなかなか眠れないそうです。
経済的な心配ではありません。
十年前に亡くなったご主人が、とても使い切れないほどの資産を残してくれたからです。
健康問題でもありません。
傘寿を迎え、少し耳が遠くなりましたが、身体はいたって丈夫です。
次女の家族と同居し、近くには次男一家も住んでいますから、一人暮らしの寂しさとも無縁です。
さらに長年、華道を教授してきたお陰で、今でもお弟子さんたちから、いろいろお誘いの声がかかり、それなりに充実した日々を送っています。

このように外見上は、誰もが羨むような満たされた余生ですが、少し以前から、四人の子どもたちにどう財産を分配したらよいか、その問題が片時も頭を離れなくなったのです。
遠方に住む長男長女も、お正月には孫たちを連れてやって来ました。
仲の良い兄弟姉妹を見るにつけ、将来、遺産をめぐって骨肉の争いが始まったらどうしよう。
苦悩は深まるばかりです。
何とも贅沢な悩みのようですが、本人にとっては食事が喉に通らないほど深刻な問題なのです。

生・老・病・死の四苦
釈尊が、人間には生(しょう)・老・病・死という四つの根源的な「苦」があると説かれたのは、二千数百年前のインドでした。
今日の世界は、釈尊がお生まれになった時代とは比較にならないほど進歩したといわれます。
特に科学技術の発展により、私たちの生活は豊かで便利になり、平均寿命も大きく伸びました。

少し以前までは、世の中に物があふれ、多くの人が長生きできるようになれば、誰もが幸せになると考えられてきました。
しかし現実はどうでしょうか。
確かに長寿社会にはなりましたが、私たちの前には、また別の形の「苦」が、厳然と立ちはだかり始めているのではないでしょうか。

もっともこの田中さんの例は、あまり一般的ではないかもしれません。
多くのお年寄りが持っているのは、年金など経済的な悩み、介護や痴呆など健康上の心配、そして孤独な一人暮らしの不安などでしょう。
それは「老苦」の今日的な姿、「長寿であるが故の苦」、言葉を変えれば「生き長らえることからの苦」ともいえます。

「病苦」もまた、今日では新しい姿をとって現れてきます。
昔は、病気になっても十分な治療を受けられず、苦しむ人たちが多かったといわれますが、最近はそれとは逆の場合もあるようです。
つまり、延命だけを目的にした医療が過度に施されるため、末期の苦しみがいつまでも続く「なかなか死なせてもらえない苦」、「長い期間、病院のベッドへ縛り付けられる苦」などに悩まされている人も少なくないと聞きます。

仏法を繰り返し聞く
もう数年前の話ですが、心臓病で末期状態にあるご門徒をお見舞いしました。
人口呼吸器を取り付けられ、ベッドの上に縛り付けられていました。
医師の話では、もう意識は無いということでしたが、苦しそうにバタンバタンと身体を動かしている姿は、なかなか正視できませんでした。

長寿、健康、物質的豊かさなどは、人類が長年、追い求めた夢です。
今の日本は、もちろん個人差はありますが、社会総体として見た場合、ほぼその目標に近づいたといえましょう。
しかし私たちの「苦」が、姿こそ変え一向に無くなりそうもないことは、先ほどの話からも明らかだと思われます。

親鸞聖人が、所依の経典とされた浄土三部経の一つ『仏説無量寿経』の中に、「田あれば田に憂へ、宅(いえ)あれば宅に憂ふ。
...田なければ、また憂へて田あらんことを欲(おも)ふ。
宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ」(註釈版聖典54頁)という有名なお言葉があります。

ここには、凡夫というものが、物があればあったで悩み、無ければ無いで不満に思う存在であることが、的確に顕(あらわ)されています。
これこそ、時代が経っても少しも変わることのない、私たち自身の姿であると申せましょう。

さまざまな苦を減少させようと、懸命に努力して文明を発展させてきた人類の叡知は偉大なものです。
しかし、苦の根本的な解決は、単に外的な条件を整えるだけでは不可能であることに、そろそろ気づいてほしいものです。
そのためには、おみ法を繰り返し聴聞することが大事でしょう。

聞法を重ねることで、「苦」が私たちの煩悩に深く根ざしていること、阿弥陀さまの慈悲の光りは、そうした煩悩具足の凡夫の上に注がれていることに、気づかせていただくことができるからです。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/