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念仏者の道宗 みんなの法話

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念仏者の道宗
本願寺新報2001(平成13)年3月10日号掲載
渡邉 顯正(わたなべ けんしょう)(勧学)
蓮如上人との出会い

え.秋元 裕美子
五箇山・白川郷の合掌造り集落は一九九五年、世界文化遺産に登録されました。
この五箇山の赤尾に、室町時代の中期、真宗篤信の念仏者といわれる弥七さんという人がおられました。

弥七さんは四歳の時に母、十二歳で父と死別されました。
父の遺言により、父母に会いたいならば、九州の羅漢寺に行けば、五百羅漢の中に、親に似た顔の羅漢さんに会えると思い、二十歳の時、旅立ちをしましたが、その道中において、ある念仏者の勧めにより、縁あって蓮如上人を訪ねることができました。

この蓮如上人との出会いが、一生の転機となりました。
弥七さんは九州の羅漢寺参りをやめて、蓮如上人のもとで、しばらくの間、聞法につとめられました。

「善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり」(註釈版聖典・1127頁)と、善知識・蓮如上人にお会いできました喜びに、家に帰ることも、寝食も忘れて聞法に精を出され、法名を「道宗」といただいて、お念仏の生活を続けていかれました。

やがて道宗さんの名声が高まるにつれ、一部の人から「道宗さんは念仏売り」と、悪口をいわれるようになりました。

このことを道宗さんが蓮如上人に申し上げましたところ、蓮如上人は「『念仏売り』という言葉は初めて聞いた。
しかし、よく考えてみると、道宗よ、『念仏売り』とは大変よい名前ではないか。
しかし、売る相手が少ないもので困る。
嘆かわしいことだ」と思案されました。

聞即信の味わい
道宗さんは、年に二回か三回は必ず遠路はるばる山科御坊までお聴聞に参られました。
また、越中井波の瑞泉寺には、月に一回は必ず参られたと伝えられています。
勤行の時は必ずついて読経され、「お経にあわないのは三年の不作(作物の不作)にあうようなものよ」と、いつも申されていました。

お説教を聴聞されるお同行さんの中には、お経にあわず、説教のはじまりに間に合ったことを、「ちょうどよかった。
やっと説教に間に合って」と、このように言う人もおられますが、道宗さんの意見によれば、このようなことを言うのは間違いであって、お経にあうということは、仏のご説法を聞かせていただくことであり、そのご説法の教義内容を、布教される方がたが説き述べられるのですから、お経の縁に続いて聴聞されることが肝要かと思います。

聴聞の「聴」の字は耳で聞くことであり、「聞」という字は心で聞くことです。

それ故に親鸞聖人は、本願成就文の「聞其名号 信心歓喜」の経意を解釈されて、

<pclass="cap2">「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり
(同251頁)

<pclass="cap2">とお示し下さいました。

「仏願の生起本末」とは、阿弥陀仏の本願の起こり(生起)、本末とは、因本は発願修行、果末は名号、すなわち、本願のお誓いの通りに成就なされたのが南無阿弥陀仏の名号ですから、覚如上人は「本願や名号、名号や本願」とおっしゃいました。

阿弥陀仏の本願の起こりの一部始終をちょうだいするならば、それは私一人のためであったと、本願に対する疑いの心は全く晴れます。
疑いを晴れさせていただくことは、すなわち「如実の聞」によるのです。
よって、「疑心あることなし、これを聞といふなり」とおっしゃるのです。

この「聞」は、一般仏教における耳根発識領受(にこんほっしきりょうじゅ)の聞と異なり、念仏行者の無疑決定の当処を直ちに名付けて聞とするのですから、信(無疑心)の外に聞はなく、聞の外に信はなく、聞即信の味わいを、「疑心あることなし、これを聞といふなり」と述べられるのです。
ゆえに続いて「『信心』といふは、すなはち本願力回向の信心なり」と仰せられるのです。

命ある限り油断なく
赤尾の道宗さんは、真宗念仏者の生き方として、「二十一箇条の心得」を残されました。

その第一条には「後生の一大事、命あらん限り、油断あるまじき事」と述べられてあります。

また、第二条には「仏法よりほかに心にふかく入る事候は、あさましく存じ候て、すなわち、ひるがえすべきこと」等と述べられてあります。

道宗さんにおいては、仏法が日々の生活の中にしみこんでいるからこそ、善導大師のおっしゃる「念々称名常懺悔(じょうさんげ)」の生活が続けられたことと思います。

五箇山の赤尾の行徳寺は、道宗さんの開基の寺として継承されています。

道宗さんは、四十八本(四十八願をあらわしています)の割れ木の上に、慢心を許さぬよう横臥(おうが)なさっている像を、行徳寺にお参りすると拝むことができます。

「仏法に明日は、あるまじく候」


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/