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父の一言 ―法話でない法話― みんなの法話

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父の一言―法話でない法話―
本願寺新報2001(平成13)年4月10日号掲載森 正隆(もり しょうりゅう)(大阪・蓮光寺前住職)大阪のド真ん中でえ.秋元裕美子私は大正末期族の老僧でありますが、昨今、どういう訳か、幼少の頃、父親との話のやりとりの中で、未消化のまま、とり残してきたいくつかの事柄が、まるで水泡のように意識の表面に昇ってきて、プカプカするのが気がかりで、これは、今の間にじっくりと消化しておかねばという気持ちになり始めたんですナ。
</p>まずは、その一例をご紹介しますれば、「将来、大きうなって衣着る人間は、大阪弁喋(しゃべ)るな」</p>いきなり、こんなことを申して、びっくりなさったお方もあろうかと思いますが、私が育ったのは、大阪船場のド真ん中の備後町二丁目、寺の門を出て真っ直ぐ西向いて歩けば、ほんの数分で北御堂さん(津村別院)の備後町門に到りつけます。
</p>ここらは船場繊維街の根拠地で大阪弁船場ことばの発生地ともいえる辺りです。
そんな環境で「大阪弁喋るな!」てなこと言われたら、まるで呼吸するな!と言われたのも同然ですナ。
</p>「大阪のド真ん中に住んで、なんで大阪弁つこうたらあかんのやちゅうて、なんで、おやじに喰うてかからなんだんや、意気地なし!」読者のお顔が目に見えるようですナ。
ごもっとも。
これには、話せば長うて深い訳があったんです。
</p>明治の気骨の固まり私の父は、明治二十六年春、雪深い越後の国は西蒲原郡地蔵堂のG寺の次男に生まれ、縁あってはるばる大阪の寺へ住職にやってきてくれました。
その寺たるや、大正時代は全くの無住、檀家の数は十指にたらぬ空き寺同然、賑々しくお出迎え下さる人影もなし。
ご本山より正式に住職の辞令をいただいたのは昭和二年とか。
</p>そもそも、この寺は母方の祖父出生寺でありました。
二人の息子がいながら、二人とも他寺へ養子に出し、自坊へは遥か九州熊本より若い僧を後継者、住職に迎え、その人は誠実に法務を勤めて着々、寺の基礎を築いたと。
</p>ところが大正二年に五十一歳で急逝、爾(じ)後処理を手抜かったか、結果空き寺同然の姿になったらしいと。
</p>父は、事前にこの経緯を耳にした上で上洛、大正中期、本願寺に初めて開設された社会部に在籍し、活動を開始しました。
やがて、大正十二年九月一日、あの関東大震災が勃発、東海道は各地で寸断、復興の目処(めど)立たず、築地本願寺消失の報(しら)せ届くも、手のつけようもなく、父は責任上、上京救援の本山の思し召しを、母が縫った特製のチョッキにそれを縫いつけ、名古屋から中山道沿いに、地震発生四十日目、秋風吹き始める一望千里焼土と化した東都へ足を踏み入れたと、話しておりました。
</p>父が郷里におりました頃、小学校卒業直前に父親が急逝。
当時、学生だった異母兄が、翌春には卒業帰郷するため一年間高等科に在籍、弱冠十三歳で寺の住職代務を果たし、義兄の帰郷後、丈なす雪かきわけ十余里、新潟中学を受験、合格即ボート部にスカウトされ在学五年、信濃川で青春の火花散らす人生意気に感ずる「社会派、行動派」に成育したようです。
</p>まア、いうなれば明治の気骨の固まりみたいな父が、学生時代の五、六年、京都で暮らしてはいましたものの、そこから西へ十三里、浪速・大阪・船場の事情は知る術もなかったようです。
</p>ここに及んで、父の一言を未消化のまま放置していましたのが、今になっていささか気がかりに思え始め、これだけはキチンと消化しておきたいとの思いが募ってきたのです。
</p>み親のよび声一口に、京・大阪とは申しますが、同じ関西圏ながら、かなり大きな差があります。
</p>この場合、どちらが良い、悪いを論じては埒(らち)があきませんので、ありのまま、その相違を考えてみますれば。
</p>まず大阪弁、とりわけ船場ことばの底を流れてるのは、商いを軸にしたもので、挨拶、世間話、景気話等々は商い成立へ向けて流れます。
相手がお得意、お出入りとなると、対話中に隙間を空けることは、先方さまに対して礼を失することと考えられます。
ですから、その隙間を上手に埋めるために、ごく自然に色とりどりの話を挿入します。
ワザとらしい、またはとってつけたようなのは駄目で、さり気ないのが尊ばれます。
上手過ぎても、下手過ぎてもいかず、ごく自然が身につくまでどれほど苦労することか。
</p>それでなお、苦労の素振りすら相手に感じさせず、お互い同士納得ずくで商談成立へ導くのが最高とするところなのです。
</p>文字通りの過酷な自然風土に耐えてきた父の耳に聞こえた大阪弁は、誠意に欠ける一種の室内ゲームか、他愛ないお遊びに聞こえたのではなかろうか、だから息子の私に、「将来、衣を着る人間は、大阪弁喋るな」となったんでしょうか。
しかし、その一言が、その後、僧侶として生きる私の姿に少なからず影響を与えたことには違いありません。
</p>「必ず救う」と、いつも私に寄り添って下さるみ親(阿弥陀さま)のよび声ではありませんが、父の一言は、私にとって、法話ではない父の法話に思えてなりません。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/