阿弥陀さまのはたらき みんなの法話
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阿弥陀さまのはたらき
本願寺新報2002(平成14)年10月1日号掲載
広島・徳正寺住職 徳正 唯生(とくまさ ゆいしょう)
ある方の問い
一昨年のことです。
組(そ)内で行っている仏教壮年会の研修会の席で、ある方がこういうことをおっしゃいました。
四十代半ばで、この会では若手の方です。
「自分はこうしてお寺でお話を聞けるのを嬉しく思っているけれど正直なところピンとこないことも多い。
その一つに、よく仏さまのはたらきといわれるが、あれはどういうことなのか?
たとえば、電波というものがある。
電波は目に見えないけれど、電波がはたらいているということはよくわかる。
何故ならテレビとかラジオとか、電波のはたらきによって見たり聞いたりできるものがあるから、理解できる。
それじゃあ、仏さまのはたらきというのはどういうところで見たり聞いたりできるのか」
きわめて本質的な問いかけです。
お木像であり、ご絵像であり、あるいは南無阿弥陀仏のお名号であり、礼拝の対象として仏(阿弥陀如来)さまを、私たちは形として思わせていただくことができます。
阿弥陀さまがどういう仏さまか、と問われた時には、そのお姿を指し示せばいいでしょう。
しかしながら、阿弥陀さまのはたらきを問われた時には、それだけでは十分な答えとはいえません。
問われた方を納得させることはできないでしょう。
「仏さまのはたらき」と問われて、たくさんある宗教の中には、事の良し悪しは別にして、比較的容易に答えることができる宗教もあります。
極端なことをいえば「病気が治る」「お金が儲かる」「家庭が円満になる」などと答えることができるかも知れません。
ところが私たち浄土真宗の教えで「仏さまのはたらき」と問われて、それに一言で答えるのは非常に難しいことです。
それではこの問いに対してどう答えればいいのか。
その場に居合わせた者は、みんな頭を抱え込んでしまいました。
独り旅を続ける私に
それ以来、その方の問いが自分自身の問いになりました。
<pclass="cap2">独り旅
続けし我の
いつの日か
如来に遇(あ)いし
力強さよ
右の短歌は、平成四年に九十歳で亡くなった私の父親が詠み残してくれたものです。
広島県から愛媛県の島のお寺に養子に入って、その島で六十年間を過ごしました。
寡黙な人でした。
おしゃべりな人を口から先に生まれたような、といいますが、父親の場合はさしずめお尻から先に生まれたような、というべきでしょう。
おそろしく口数の少ない人でした。
人が新しい環境に入るとき、何がまず一番に必要で有利な条件かといえば、社交性です。
そのバロメーターになるのがおしゃべりです。
父親にはその最初の要件がまったく欠落していました。
大変しんどいことだったと想像します。
おまけに要領で生きるということが全くできない人でした。
思い出深いエピソードがあります。
大三島という島ですが、島とはいえども山も谷もあります。
法務の時には峠をいくつか越えて集落から集落を行き来します。
遠いところなら歩いてゆうに二時間以上はかかります。
自転車も乗れない人でしたからすべて徒歩です。
法務の多い日など集落から集落を何回も往復せざるをえないこともしばしばあります。
要領で考えれば、こちらの集落でのお勤めは午前中にまとめてすませ、午後からもう一つの集落へ移動するのが一番合理的です。
父親にはそれができませんでした。
依頼されたら依頼された通りの時間で、先方の意向に添うように予定を組んでいく。
ですから時によると集落から集落を一日に何往復もせざるを得ないことも再三あったようです。
そういう父親に母親がよくブツブツいっていた様子を思い出します。
先にあげた短歌はそんな日常の中、峠の上で一休みして、今登って来た道筋を振り返った時、ふと頭に浮かんだお味わいであったかと思います。
山越え谷越え行ったり来たりを繰り返すのは、他の誰の足でもない、まぎれもなく自分の足です。
その意味で、人生はどこまでも「独り旅」です。
しかし、しみじみと思いを巡らせた時、行ったり来たりの毎日そのものが、実は阿弥陀さまの大悲に包まれての毎日だったと味わえたのだと思います。
人生の意味そのもの
雨の日があり、風の日があり、晴れの日がある。
みかんの花咲く頃があり、みかんの色づく頃があり、木枯らしの頃がある。
数々の出遇いがあり数々の別れがある。
数々の悲しみ、苦しみがあり、数々の喜びがある。
そのすべてに阿弥陀さまのはたらき、ご縁があるのです。
そのことに気付かされた時、その感動を「力強さよ」と表現することができたのだと思います。
「仏さまのはたらき」とは絵に描いたような現象をいうのではなくて、悲しみの只中にあって寄り添い、苦しみの只中にあって励まし、喜びの只中にあって共に喜んで下さる、人生の意味そのものを表しているのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |