「溝」と「壁」 みんなの法話
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「溝」と「壁」
本願寺新報2004(平成16)年1月10日号掲載
大阪・信悦寺衆徒 木本 和行(きもと かずゆき)
今年も様々な出あいが
「あけまして 南無阿弥陀仏」―新しい年を迎えました。
昨年の反省をしながら、今年の抱負を、みなさんそれぞれ考えられたことでしょう。
私自身も、仏法聴聞とお念仏の生活をさせていただきたいとの思いを新たにさせていただきました。
さて、一年の始まりということは、今年もさまざまな出あいがあるということです。
人との出邂(あ)い、本との出合い、自然との出合い、嫌なことですが、病気との出闘(あ)いも。
それぞれの出あいによって、私自身が育てられ、今までわからなかったことに気付かされ、当たり前だと思っていたこともそうではなかったと知らされるのでしょう。
それは「なぜ私は人間に生まれてきたのか?」という、根元的な問いに「であう」ため、とも言えるかもしれません。
反対に、人との出会いによって生み出される苦悩もあります。
お釈迦さまは、嫌な人と出会う苦しみを「怨憎会苦(おんぞうえく)」と示されました。
しかし考えてみて下さい。
嫌いだと思う人は、自分に都合が悪い人だから嫌いなのではないでしょうか。
嫌いだと思えば思うほど、愁(うれ)い、悩み、苦しみとなり、お互いの「溝」が深まっていきます。
少しずつ埋める努力
この「溝」という言葉を聞いて何を想像しますか? 「溝掃除」を想像された方は、地域の清掃活動に参加されているのでしょう。
「レコードの溝」と思われた方は、私と同世代か少し先輩でしょうか。
しかし「人と人との溝」といわれた方は、今、人間関係でトラブルを抱えられているかと思います。
「溝」を辞書で調べると、(人と人との間の)へだて、すき、とあります。
職場の人との溝、友達との溝、親子間の溝、夫婦間の溝と、さまざまあることでしょう。
ところでよく似た意味の言葉に「壁」があります。
私は「溝」と「壁」では、どう違うのだろうかと思いました。
壁は、お互いの顔を見ることができませんし、話し合うこともできないイメージがあります。
一方、溝はお互いの顔を見ることも、話しをすることもできるような感じがします。
また、壁を壊すのは大変な労力がいるようですが、溝を埋めることは少しは可能性があるように思えます。
同じように「壁」を辞書で調べてみると、障壁、障害物、困難とあり、諺(ことわざ)などをみましても人と人との関係ではあまり使われないようです。
やはり人と人との溝は、話し合い、そして埋めていく作業によって少しずつなくなっていくのかも知れません。
しかし、溝があることにも気付かない場合もあります。
交通事故で最愛の子どもを亡くされたお通夜の席でのことです。
おつとめが終わり、僧侶が「お子さんが亡くなられたのは、あなた方にいのちの尊さを教えるため、そして仏さまの教えを聞かせるために...」と話されたそうです。
その言葉を聞いた親御さんは「私がこの子を死なせたのか? 仏さまの教えも聞きたくないし、いのちの尊さもわからなくてもよい」と、二度と僧侶の話は聞きたくないと思われたそうです。
結果的に大きな溝となってしまったのですが、僧侶はそのことに気付かなかったのです。
自身の姿を知らされる
<pclass="cap2">外儀(げぎ)のすがたはひとごとに
賢善精進現ぜしむ
貪瞋邪偽(とんじんじゃぎ)おほきゆゑ
奸詐(かんさ)ももはし身にみてり
(註釈版聖典617頁)
親鸞聖人の「正像末和讃」悲歎述懐讃のお言葉です。
この私の姿はまさしく賢く善を行いつとめているように見せかけているが、いつわりが多くだましてばっかりの私であると、身も心も悲しみ、歎かれたお言葉です。
その姿に気付かせていただくのは、阿弥陀さまの願いである「あなたのすべてを、そのままいだき取る。
決して見捨てることはない」という、本願のまことに出遇(あ)わせていただくしかないのでしょう。
人間とは、お互いがなかなか理解し難い存在であり、誤解ばかりのわが身でありました、と知らされていく世界は、少しずつですが「溝」が埋まっていく世界です。
その世界こそ、今、私たちに一番かけているところではないでしょうか。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |