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思い通りに生きる!? みんなの法話

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思い通りに生きる!?
本願寺新報2004(平成16)年4月20日号掲載
行信教校研究生 濱畑 僚一(はまはた りょういち)
浄土真宗のみ教えとは

春になり、今年も行信教校(大阪府高槻市)に新入生が入学されました。
毎年、いろいろな方が、それぞれに思いを持たれ、浄土真宗のみ教えを学びに来て下さるのです。
私も新入生の方と机を並べ、一緒にみ教えを聞かせていただきます。

浄土真宗のみ教えとは、『仏説無量寿経』に説かれた教えのことです。
そこには、阿弥陀如来さまの願いが説かれています。
すなわち、阿弥陀如来さまは、私にどのように生き、どのように死を受けとめてほしいかを願いとしてお説き下さるのです。
如来さまは願いを聞かせることによって、私の人生に意味と方向を与え、新しい人生観を持たせ、救いを実現されてゆくお方です。

昨年の十二月八日、恩師である行信教校校長・利井明弘先生が六十七歳でご往生されました。
親しくご教導いただいた先生との別れは、あまりにも悲しく、大きな衝撃でした。
三年ほど前に、心臓のバイパス手術をされましたので心配していましたが、こんなに早く、また急に逝かれるとは思っていませんでした。
先生は体のために節制をされる方ではありませんでした。
そのことが原因なのか、体調がすぐれないことが多々ありました。
しかし、どんなに体調がすぐれない時も、休憩をとりながらパソコンに向ってご法話の原稿を書かれていたのです。
また、お若い頃からどんな日も毎日欠かさずお聖教を拝読されていたそうです。
先生は別れの言葉も残さず、書きかけの原稿を残して逝かれました。
その利井先生にとって、生きること、死ぬことはどんな意味をもっていたのでしょう。

いかに生きたらいいか
利井先生の百カ日も終わったある日、テレビの番組を見ていました。
出演者の方が、「限りある人生だから、自分の思い通りに生きる」とおっしゃっていました。
その言葉を聞いた時、私は複雑な気持ちになりました。

確かに、死は突然にやってきます。
また私自身、人生を思い通りに悔いの無いように生きたいとも思います。
しかし、何か落ち着きません。
人生を大切に生きることと、私の思いのままに生きることは、私には異なったことのように感じたからです。
「人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」。
また「迷惑はかけたもの勝ち。
私もあんなふうに生きてみたい」という意見を聞いたこともあります。

確実に、また突然に迎えねばならない死を前に、いかに生きたらいいのでしょう。
みなさんはどのように考えられますか。

私自身の心に尋ねれば、「自分の思うように生きるべきだ」と言います。
しかし、私の心に尋ねるのではなく、阿弥陀さまにお尋ねすると、どうお答え下さるでしょうか。

アミダさまと共に歩む
『無量寿経』には、阿弥陀如来さまの願いが四十八通りの説き方をもって顕されています。
特に第十八番目の願いは、四十八の願いをまとめてゆく一番大切な願いです。

第十八願には、「たとい私が仏陀になり得たとしても、すべての衆生が、この真実なる誓願を疑いなく信じ、わが国へ生まれようと思って、わずか十遍でも念仏しているものを、もし生まれさせることができないようなら、私は仏陀にはなるまい。
ただし五逆罪をつくり、仏法を誹謗しているようなものは除く」と説かれています。

すなわち阿弥陀さまは、「いろいろな人生があるだろうけれど、お願いだから私の浄土に生まれると思って、私の名を称えながら、私の願いに導かれる人生を過して下さい。
あなたが浄土に生まれることが、私のいのちです。
ただし、あなたを支えて下さる方々を傷つけることや、仏道を否定することは決して認められないことです」と願いをもって、私の問いにお答え下さいます。

親鸞聖人は、如来さまにお尋ねしながら人生を歩まれた方でした。
そのみ跡を慕い、如来さまの願いに耳を傾けながら、一歩一歩、歩みを進めたいものです。
どんなときにも、片時も離れず、常に私と共にいらっしゃる如来さまとのこの世の歩みが終わる時、お浄土に至るのだとお聞かせいただいています。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/