送る言葉 みんなの法話
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送る言葉
本願寺新報2004(平成16)年6月20日号掲載
広島・福泉坊住職福間 制意(ふくま せいい)
悲しんじゃいけない?
この四月、お寺で私の住職継職法要を営みました。
もちろん慶びの法要でしたが、その数日前、残念なことがありました。
心待ちで法要の準備を進めていた役員の方が、突然亡くなられたのです。
そのちょうど十日前、お寺へ寄っていただき、法要当日の役を依頼したばかりでした。
その時の穏やかな笑顔と、亡くなられた現実とが、私の中で全く結びつきませんでした。
しかし、動かしようのない現実でした。
この方は亡き前住職と同学年で、父の急死の後を何とかやっている私を、父親のようなまなざしで見ていてくださいました。
また楽しく話を聞かせてくださる方で、ご自身のインド旅行の経験や臨死体験など、興味深いお話がたくさんありました。
「光の中へ包まれていく」感覚の臨死体験をされたそうで、それ以来、死のイメージが大きく変わったそうです。
そして「仏法の有り難さをしみじみ感じる」と、今思えば、私へ向かって法話のような話をしてくださっていたんだなと思います。
しかし、そのかけがえのない方との突然の別れ。
これが人生の現実でした。
そんな突然の別れの中で継職法要が終わりました。
翌日、その方のちょうど初七日でした。
娘さんが「聞きたいことがあります」と真剣なまなざしで訪ねて来られました。
「周りの皆さんが、父のことを、浄土へ往生され、浄土できっと生きているとなぐさめてくださいます。
よろこぶべきことだと思います。
でも悲しくてたまりません。
悲しんじゃいけないんですか。
ありがたく思わなきゃいけないんですか」と、大粒の涙をこぼされました。
絶句です。
言葉をなくしました。
その瞬間、四年前のことを思い出しました。
父との最後の別れです。
ただ生きていてほしい
平成十二年六月、病室へ太陽の光が差し込んでいました。
ベッドの中で横たわる父と、それを見つめる私の二人。
目を閉じていた父がそっと右手を伸ばしたので、私はその手を取りました。
すると父は私の手を握ってこう言いました。
「いろんなことがあったなあ」
父と手をつないだのは何十年ぶりのことです。
大きくて頼もしかった父の手が、びっくりするほど小さくなっていました。
父はしばらくして言いました。
「こうして寝ていると、いろんな人の顔を思い出した。
家族の顔。
親類の顔。
友人の顔。
ご門徒の顔。
たくさんの人と出会えて良かった。
もう長く生きられんかもしれん。
だが、これから生まれていくところも聞かせていただいている。
心配しなくていい。
安心してくれ」
私は父の言葉と現実の厳しさをかみしめ、ただ黙っていることしかできませんでした。
しかし、心配しなくていい、安心してくれと言われて、納得なんてできませんでした。
ただ生きていてくれるだけでいい。
それが本心でした。
すると、しばらく沈黙していた父の頬を一筋の涙が流れました。
そして声をしぼり出しました。
「だが、まだ生きていたい」
私と同じです。
生きていてほしい。
それしかありませんでした。
如来大悲のぬくもりが
「なごりをしくおもへども、娑婆(しゃば)の縁尽(えんつ)きて、ちからなくしてをはるときに、かの土(ど)へはまゐるべきなり。
いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願(だいひだいがん)はたのもしく、往生(おうじょう)は決定(けつじょう)と存(ぞん)じ候(そうら)へ」(註釈版聖典837頁)
その瞬間、部屋へ差し込んでいた太陽の光が如来の大悲のぬくもりとなって、父と私を包んでいました。
この私一人(いちにん)がため、なくてはならない世界、それが浄土であり、喜ぶべきことを喜べないこの私へ向かって、大悲をこめてよびかけてくださる阿弥陀仏。
「まだ生きていたい」と涙をこぼした父。
その父へ「見ていてください。
見ていてくれるなら、これから何とかやってみる」と一言だけ言えました。
結局これが最後の言葉。
その翌日、六月十三日、父は往生しました。
思いきり悲しんで、それからじんわり喜びましょう。
そして仏のまなざしの中で何とか立ち上がってがんばりましょう。
娘さんへ送る言葉です。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |