形だけにおわらない みんなの法話
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形だけにおわらない
本願寺新報2004(平成16)年10月10日号掲載
東京・光明寺住職 石上 和敬(いわがみ わけい)
朝おつとめする意味は
「最近の有名な画家たちは、昔の立派な画家のような絵のこころを持っているだろうか」
こう尋ねられた中国・明の時代のある画家は、次のように答えたそうです。
「最近の絵は、昔の画家たちの絵にそっくりである。
あまりに似すぎているということは、本当には似ていない、ということだ。
最近はろくな絵がないものだ」
この画家が言いたかったことは、当時の画家たちが、昔の名画の表面的な模倣にばかり気を取られてしまい、描く対象と主体的に向き合い、自らのこころで受け止めたそのままを描くという画家本来の姿勢を見失っている、という痛烈な批判であったとされています。
表面的には昔の名画に似ている絵が多いけれども、絵を描くこころという面から見れば昔の画家には遠く及ばない、ということでありましょう。
私は僧侶ですが、この話から大きな示唆(しさ)を与えられました。
例えば私は毎朝、正信偈をおつとめします。
これは浄土真宗のたしなみとされています。
毎朝、決まった時間におつとめをすることは、一日のスタートとしてとても爽快(そうかい)で、かつ充実した気分にもなります。
しかし、形ばかりそのような姿になっていたからといって、「正信偈をおつとめする意味はどこにあるか」と原点に立ち返って考える機会はそれほど多くはありません。
また、自分は決められたことをしっかり行っている、というある種の思い上がりの心、その裏返しに、形通りにしていない人たちを軽んずる心が潜んでいないとはいえません。
形ばかりが調うことの欺瞞(ぎまん)に冷や汗をかくこともしばしばです。
大きな問題が隠されて
最近は仏教についての質問を受ける機会も増えました。
「他力本願とは」「阿弥陀仏とは」などの根本的な質問に対し、どう答えてきたかを自問することがあります。
僧侶として年齢を重ねるうち、当然、仏教の知識は以前よりも蓄積されてきました。
従って以前よりも豊富な知識をもってそれなりに答えることができるようになったかもしれません。
しかし、それは本当に自分の仏教理解、信仰が深まったということなのか、また、質問者の心に響く言葉を届けてこれたのか、おぼつかない思いがします。
質問の数が増えるにつれて、答えもパターン化し、仏典の言葉をステレオタイプに要領よく語っているだけかもしれません。
このように、真宗者にふさわしいおつとめを行い、仏典の言葉をお伝えしている私をはじめの画家の喩えに当てはめれば、私の場合、いまだに表面的な模倣の域を越え出ていないように思えます。
にもかかわらず、これらが外面的にはうまく進んでいるように見えるとしたら、実は大きな問題が隠され、見過ごされていると考えなくてはなりません。
感じたままを絵に描く
仏のみ教えや教えに基づく営みという、古くから伝えられてきた貴重な財産を継承していくことはもちろん大切なことですが、その貴重な財産が果たして今の自分に何を教え、自分をどこへ導き、自分にとってどのような意味をもつのか、それらの問いをなおざりにして単に言葉や営みを継承するだけに終始するとしたら、それは真の継承とはならないに違いありません。
仏典の中には、想像を絶するほどの長い時間をかけて、仏・菩薩たちが自らを厳しく問い、そして他者への慈悲の心を研ぎ澄ませてきた事例が随所に述べられています。
そのような仏・菩薩やその後の仏法の継承者たちの長い年月にわたる命がけの営為を、私たちが、深い思いもなく、ただ形だけで受け流してしまっては誠に申し訳ない思いがいたします。
今、私のもとに有り難くも届けられた仏教のみ教えや営みに対して、自らの全身全霊を傾けて相対していかなければならないのだと思います。
その結果、もしかしたら、古(いにしえ)の画家たちの絵には似ても似つかないものが生れ出てくるかもしれません。
しかし、本当に自分のこころが感じ取ったままを絵に描いていくことこそ大切なのだという姿勢は、尊いものに思えます。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |