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疑いの世相の中で みんなの法話

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疑いの世相の中で
本願寺新報2004(平成16)年11月10日号掲載
龍谷大学非常勤講師牧野 仁(まきの じん)
挨拶の返事がなくなる

最近、ご門徒のお宅にお参りした時、あるご高齢の方からうかがった話です。

「私はよく近所の公園を散歩するのですが、通りがけの子どもたちに『こんにちは』と言うのだけれど、返事があまり返ってこないんです」と。
なるほど、最近の子は挨拶が身に付いていない、というお話かなと思いましたが、予想とは違う答えが返ってきました。

「親が知らない人とは一切口をきいてはいけない、ときつく教えているかららしいのです」と。
確かに、私のお寺の周辺は新興住宅地で、近所であっても顔を知らない者同士の町です。
世の中が物騒になってきた、そんな思いが合い言葉のように交わされる今、子を持つ親御さん(私もその一人ですが)の気持ちもわからないではありません。

しかし、その一方で、「寂しい世の中になりました」というご門徒さんの嘆き、挨拶さえ交わせないほどに互いに疑い合うなんて、という思いにも共感するのです。

「信」と「疑」理想と現実
この話をある機会にお話した時、数人の方から次のような感想が述べられました。

「やっぱり人を信じることが大切なんですね」と。
確かに、人を疑ってかかるより、相手を信頼する姿勢がより立派な態度だといわれるかもしれません。
しかし、この場合の「信じる」を「すべての人が私に対して悪意を持たないと固く信じて疑わない」ということだとすれば、私は自信を持って「できます」と言えません。
私も二十代を終える年になりましたが、その少ない経験からも、一方的な悪意をもって他人をだまそう、あるいは危害を加えんとする人がいるのは紛れもない事実である、と思うからです。

その事実を押し殺して、眼前の強引な訪問販売や詐欺、家庭を不安に陥れるようなことを謀る人に対して「信じる」ことが果たして例外なくできるのか、正直私には甚だ心もとない、と思うからです。
人を「信じる」こと、その理念はなるほど理想的であるかもしれませんが、自分の実際の姿からかけ離れていては、単なる画餅(がべい)ではないでしょうか。

では、「疑う」でも「信じる」でもないとすれば、私はどうすればいいのでしょうか。

様々な縁が念仏喜ぶ糧
親鸞聖人は「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり(すべての生きとし生けるものは、生まれかわり死にかわりした過去世における父・母・兄弟である)」と言っておられます。
聖人は恐らく全く見ず知らずの人にでさえ親密なご縁を感じておられたから、このように言われたのでしょう。
しかし、これを聞いて私自身が「そうですね」とうなずけるかどうか。

聖人にとっては多くの出遇(であ)いが、念仏者としての生涯に欠かせないご縁だったでしょう。
師法然上人を勢至菩薩の化身といただかれたのをはじめ、出遇いの一つひとつが阿弥陀如来のみ教えを輝かせる大切な一期一会だったに違いありません。
さらに、「一切の有情」とは、特に念仏者に限ることなく、世間すべての人を指すお言葉です。
お念仏をかみしめて毎日を過ごされた聖人にとって、もはや特定の宗旨を共にする人だけでなく、すべての人が弥陀の教えに触れる大切なご縁とその目に映ったに違いありません。
それは、人に限らず鳥も、花も、流れる雲も、すべて仏法として聖人を包んでいた、と想像します。

念仏者にとって、人とは、このような想いの中に捉えるご縁のことを言うのではないでしょうか。
そこでは、いたずらに「疑う」のでもなく、悲壮な決意をもって「信じる」のでもありません。
ただ、さまざまな出遇いをお念仏を喜ぶ糧としながら、煩悩の私のまま一々の出来事と相対するだけであります。

「疑い」合う世の行く末を案じつつも、「信じる」ことに限界を感じる私ができることは、まことの教えを喜ぶ日々を過ごすことに尽きます。
関係のない人はいない、皆が私に仏法を聞けよ、と呼びかけておられる。
このように私と人とあい接するところに、念仏者としての私の在り方は自ずと定まってくるのではないでしょうか。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/