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2匹のネズミ みんなの法話

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2匹のネズミ
本願寺新報2004(平成16)年11月20日号掲載
北海道・双葉高校教諭 櫻井 法道(さくらい ほうどう)
人間の生きざまを表す

私たち人間の日々の生きざまとして、『譬喩(ひゆ)経』に「黒白(こくびゃく)二鼠(そ)」の喩(たと)え話があります。

ある時、旅人が荒野を歩いていると、突然、猛獣に襲われました。
旅人は慌てふためきましたが、何とか逃げ出し、ちょうどそこにあった空井戸にこれ幸いと駆け寄り、その口から垂れていた一本の藤づるにつかまり下に降りていきました。
やがて猛獣が追いつき、井戸の中をのぞいて激しくほえましたが、降りることはできません。

旅人はやれやれと安心したものの、ふと底を見ると、恐ろしい毒をもった龍が大きな口を開けていました。
驚いて中途で止まり、まわりの崖に足をかけようとしましたが、そこにもまた毒蛇がいて今にも襲いかかろうとしていました。
旅人はますます恐れおののき、今はもうこの藤づるだけが命の綱だと、懸命にそれにしがみつきぶら下がりました。

ところが今度は、井戸の口の所に黒と白の二匹の鼠(ねずみ)が出てきて、かわるがわるそのつるの根をかみ始めたではありませんか。
旅人は、これは大変だと、しきりにつるを揺さぶりましたが、つるが揺れるに連れて、たまたま根元にあった蜂の巣から数滴の蜂蜜がこぼれ落ち、偶然にも旅人の口の中に入りました。
その蜜は何ともいえないおいしい味でした。
それから旅人は眼前に迫っている自らの置かれた恐ろしい現実をすっかり忘れて、ただ落ちてくる蜂蜜をもっとたくさん口に入れようとしきりにもがき始めた、というお話です。

トルストイも深く感動
ここで、荒野をゆく「旅人」とは、私たち人間が自分の人生に対する日々の思いをさして持たずに、ただ漠然と生活していることを喩えたものといえましょう。
「猛獣に襲われる」とは、昨今の世界情勢の不安による事件や事故に巻き込まれ生命を絶つこと、天災や人災に巻き込まれることもいえるでしょう。

「空の井戸」とは、そのような世相の中で唯一安住の場所といえる家庭生活でしょうか。
井戸の底の「毒を持った龍」とは、決して誰もが避けることのできない刻々と迫る死の影を意味します。
「毒蛇」とは、人間の病苦をはじめとする肉体苦をいい、藤づるとは人間の命(余命)をいうのです。
「黒白二匹の鼠」とは、確実に命をむしばむ昼夜の時を表します。
「蜂蜜」とは、人間の世俗的な享楽に心を煩わし悩ます煩悩といえるでしょう。

ここには人間が日夜無常の危機にさらされ、苦痛に責められながら、なおもはかない自分の生命にすべてを託して、必死に眼前の享楽に陶酔している姿が描かれています。
ロシアの作家、思想家・トルストイは、この物語に深く感動して、これは疑うことのない事実であると『我が懺悔』にこのことを引用しているのは有名です。

人生の究極の目標とは
人は本来限りある存在として常に不安定な生活を送り、また、さまざまな煩悩に束縛されているにもかかわらず、多くの人は世俗的な欲望の充足に日々心を奪われて、この現実を忘れたり気付かない生きざまをしているのです。
しかし、ひとたび真実に気付くなら、誰しも永遠なものを願い、清浄(しょうじょう)なものを求めるでしょう。
生命の有限性に目覚めれば、おのずから永遠なものを願わずにはおれないし、自分の罪悪性に気付けば、清浄なものをおのずから求めずにはおれないでしょう。

しかし、それをいかに願い求めたとしても、この世俗社会では決して発見することはできないのです。
本当に永遠にして清浄なるものはどこまでも人間を超え、世俗を超えた世界にあるのです。
ここに宗教が求められる理由があります。
だから宗教とは人間が自身の存在について深く顧みる時、生きることの必然として求めざるを得ないものなのです。

親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅(かたく)無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(註釈版聖典853頁)と語られています。
有限なこの世にあっては、ただお念仏の教えを聞き、お念仏申して生きることが、真実の生き方であることを教えられました。
今私たちが本当に願い求めるべき、人生の究極の目標が何であるかを今こそ、あらためて考え学びたいものです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/