ゆうれい、みた? みんなの法話
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ゆうれい、みた?
本願寺新報2005(平成17)年5月1日号掲載
大阪・法栄寺住職 小林 顕英(こばやし けんえい)
忘れられぬ永代経法要
親鸞聖人は「阿弥陀さまの本願のはたらきに出遇(あ)わせていただくとき、初めて空(むな)しいままに終わることのない人生が開かれる」と教えて下さっています。
阿弥陀さまの本願とは、すべてのものをさとりの世界へ救いとる、すなわち、せっかく生まれ難い人間として賜ったこの〝いのち〟を力いっぱい・精いっぱい生きさせてやりたいという願いです。
そして〝空しいままに終わる人生〟ということについて、私には忘れることのできない話があります。
それは、お寺の「永代経法要」に二十年以上もご出講いただいていた故宇野行信先生が生前、ご門徒方にして下さったお話です。
「ところで、みなさん方は、幽霊を見たことがありますか?」
まじめな先生が突然質問をされました。
「えっ!」と思う私たちに、先生は平然と続けられます。
「日本の怪談話に出てくる幽霊は、女性で若くて美人だそうですが、それ以外に〝幽霊〟に共通している点が、三つあります。
おわかりですか。
ちなみに、男性の場合は〝幽霊〟とは呼ばないそうです。
男性の場合は〝化け物〟だそうです。
共通している三点とは、ザンバラ髪で、両手を前に出し、足がないということです。
この〝足がない〟というのには、一つの例外があります。
『牡丹灯篭(ぼたんどうろう)』という話は、カランコロンという下駄(げた)の音が入りますから、この話の〝幽霊〟は例外的に足があるのです。
ザンバラ髪というのは、どういうことかと言いますと、『後ろ髪を引かれる』と言われますように、過ぎてしまったことに、心を残しているということです。
あんなことを言わなければ...。
こんなことさえしていなければ...と、いうことです。
両手を前に出しているというのは、「取り越し苦労」ということです。
出かける前日には、天気予報がとても気になります。
しかし、いくら気にしても、降る時には降りますし、寒い時には寒いのです。
どれほど私が心配してもどうにもならないことに、目を奪われてしまっているのです。
過ぎてしまったことに心を残し、まだ来ぬ事に目を奪われてしまい、〝一番大切な私の足下がお留守になっている〟というのが、足がないということです。
本当に〝幽霊〟を見たことは、ありませんか?
実は、鏡を目の前に持ってくればよいのではありませんか」
如来さまがいつも一緒
ここまで聞いて、「ドキッ!」としました。
私は「人生」というと、何となく自分に都合よく〝長い〟ような気がしていましたが、よく考えてみますと、私の人生とは、今、此処(ここ)を抜きにしては、有り得ないのです。
過ぎてしまった昨日には、もう戻ることは出来ませんし、まだ来ぬ明日は、当てにはならないのです。
〝私の人生〟とは今と此処を抜きにしては、有り得ないのです。
その大切な今・此処を、本当に生きさせてやりたいと、はたらいて下さっているのが「南無阿弥陀仏」の如来さまなのです。
常に居(い)ますを
仏という
此処(ここ)に居ますを
仏という
共に居ますを
仏という
この仏を
南無阿弥陀仏という
このいわれを聞いて
歓ぶを信心という
称(とな)えて喜ぶを
念仏という
岩本月洲という方の詩を、静岡に住む親友が、年賀状で教えてくれました。
今と此処しかない〝この人生〟を、力いっぱい・精いっぱい生きさせてやりたいと、「つねに・ここに・ともに」ましますのが、如来さまです。
肩を張ってみても、偉そうに威張ってみても、ひとりで生きていけるほど強くはないのが〝凡夫〟とよばれている〝この私〟です。
そんな私を見抜いて下さった如来さまが、「どんなことがあっても、いつでも、一緒にいるよ」とはたらいて下さっているのです。
共にましますと気付くとき、及ばずながらも、自分なりに力の出し切れる人生が、初めて開かれてきます。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |