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答えを言えばいいの? みんなの法話

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答えを言えばいいの?
本願寺新報2005(平成17)年10月1日号掲載
仏教青年連盟指導講師 大在 紀(おおざい おさむ)/div>
アナログかデジタルか

先年、学習塾で教えている友人と話をする機会がありました。

うちのお寺の子ども会にずっと参加していた子が、中学三年生になってから彼の塾に通い始めたと聞いていましたので、様子を尋ねました。

すると、「あの子は、今どきの子には珍しくアナログ人間だから伸びるよ」と教えてくれました。

「アナログ人間」とはおもしろい表現だなあと思うと同時に、何事にもあきらめず、根気よく頑張るその子の姿を思い浮かべて、妙に納得してしまいました。

「アナログ」の対義語は「デジタル」です。
すべてを数字で表すのがデジタルです。
パソコンなどは、複雑なように見えても「0」と「1」の二つだけの数字の命令で動いています。

損か徳か、有るか無いか、勝ちか負けかなど、答えをすぐに出そうとするのが現代の風潮のようです。

「今どきの子は持久力がない」「就職してもすぐ辞(や)めてしまう」という話しをよく耳にします。
「自分にはできない」「自分には向いていない」と思うと、すぐにあきらめてしまうのでしょう。
その意味で「デジタル人間」が増えているようです。

親や先生も、子どもの問いに対して、答えをすぐに与えてしまいがちです。
自分なりの答えを出そうと考える過程が無視されているように思います。

お釈迦さまの対機説法
さて、釈尊(しゃくそん)(お釈迦さま)の説法は対機説法(たいきせっぽう)であり、応病与薬(おうびょうよやく)であったといわれます。
対機説法とは相手の能力や素質に応じてわかるように説くことで、応病与薬とは相手の苦悩(病)に応じて最もふさわしい法(薬)を与えることです。

私は対機説法という言葉を聞くと、キサーゴータミーという比丘尼(びくに)(女性の仏弟子)の話をすぐに思い出します。

キサーゴータミーには幼い一人息子がいましたが、その子が突然死んでしまいました。
彼女は我が子の死を受け容れることができず、死んで何日も経つのに抱きかかえて、会う人ごとに「この子に薬をください」と頼んで回りました。

そんな彼女の姿を見かねて、ある人が釈尊のところへ行くように勧めました。

「この子を治す方法を教えてください」と頼むゴータミーに、釈尊は「まず、今までに死人を一人も出したことのない家から芥子(けし)をもらって来なさい」とおっしゃいました。

芥子をもらってくれば我が子を生き返らせる方法を教えてもらえると思い、彼女は喜んで街に出て行きました。
二千数百年前のインドですから、どこの家も大家族で暮らしています。
一軒、また一軒と家を訪ね歩きましたが、とうとう、今までに死んだ人のいない家などどこにもありませんでした。

彼女は我が子を葬り、釈尊のもとに戻って来ました。

釈尊が「ゴータミーよ、芥子は手に入ったか」と尋ねると、ゴータミーは「もう芥子のことは結構です。
我が子だけが死んだのではないことがよくわかりました。
どうか私に、いかに生きればよいかをお教えください」と言い、出家して比丘尼となりました。

もし、「人生は無常である。
その子は生き返らない」と、釈尊がすぐに答えを言ってしまったとしたら、彼女はどうしたでしょうか。
きっと「お釈迦さまには、この子を生き返らせる能力がないのだろう。
ほかの人を探そう」と、よそへ行ってしまったことでしょう。

自灯明(じとうみょう) 法(ほう)灯明
この話は、答えを言えば解決するというものではないということを教えてくれます。
自分で気付くように導くのが、本物の師です。

釈尊は入滅(にゅうめつ)のとき、「自らを依(よ)りどころとせよ。
法を依(よ)りどころとせよ。
(自灯明・法灯明)」と遺言されました。
仏教の話を聞かなくても、私たちは「無常」ということを理屈の上では知っていたはずです。
でも、それが私自身の問題であると知らされるのが、仏法に遇(あ)うということです。

釈尊は、自らの本当の姿に気付いた上で、仏法を依りどころとして生きるようにお勧めくださっているのでしょう。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/