操作

父の肩車 みんなの法話

提供: Book

2009年7月29日 (水) 11:36時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版 (1 版)

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)


父の肩車
本願寺新報2006(平成18)年5月20日号掲載
布教使 佐々木 博真(ささき はくしん)
年に1回の楽しい夜店

私の住む広島の新聞の投稿コラム欄に「父の肩車」という短文が掲載されていました。
五十四歳の男性の方でした。

「父が交通事故で死亡した年齢になった」との書き出しです。
その父を思い出すとき、不思議と「父に肩車」を思い出すと書いてありました。

秋まつりの夜、年一回の楽しい夜店での「父の肩車」です。
その方には二歳違いの妹さんがおられます。
四、五年すると次は妹さんが肩車をされる年齢になります。
したがって夜店での肩車は、一生のうち四、五回くらいしかしてもらってないのです。

それなのになぜか、父を思い出すときに「父の肩車」が頭に浮かんでくるので、そのことが不思議でならなかったそうです。

その方は、近年になって、たまたま漢字の研究をするようになりました。
そこで「担う」という漢字の意味を知りました。

肩車はまさに、父が子を担っている姿です。
この「担う」という言葉は学校の担任の「担」です。
この「担」の字には、「になう」「かつぐ」のほかに、「引き受ける」「たすける」という意味があることがわかったそうです。

そこで、楽しい夜店で肩車をしてもらった体験は、父の無言の愛情を感じて、父に「全幅の信頼」を寄せていたからだろうと気づかれたのでした。
「安心しきった子どもの時の体感が懐かしさにつながるのだろう...」と書いておられます。

そして自分にも孫ができたら、亡父の大切な思い出として「ひいじいちゃんの肩車のことをはなしてやりたいと思ってる」と結ばれていました。

込められた真宗の教え
私はこの投稿コラムを読んだとき、「これには浄土真宗のみ教えがそっくり込められている」と感動しました。
そこで、いろいろ調べて、ご本人に電話することができましたが、浄土真宗とそれほどかかわりのある方ではありませんでした。

しかし、「担う」の意味の「引き受ける」「たすける」は、浄土真宗のご本願の教えの摂(おさ)め取って捨てない、絶対に救うという「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」のみ教えではないかと私は受けとめさせていただきました。

父親は、肩車をしたわが子を絶対に落としません。
子どもも、親が落とさないのを知っています。
父への「全幅の信頼」です。
まかせきっています。
「この親は落とすのではないか?」と疑ってはいません。
疑心はないのです。
無疑心です。
これはまさに浄土真宗の「本願を疑わない無疑心」です。

投稿された方は「安心しきった」とも書かれていましたが、これは浄土真集でいう「ご安心(あんじん)」に通じます。
本願を信じて、親に委(ゆだ)ね、まかせて、安心しきった自然体です。
浄土真宗では「自然」を「じねん」といいます。
本願力のはたらきのままにこの私が救われていくという安心しきった心境です。
「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」(註釈版聖典839ページ)とお示しになる通りです。

これは決して死んでからのみ教えではありません。
今生(こんじょう)で如来(親)のこころを疑いなく受けとめた(信受した)念仏の行者。
すなわち「真実信心の行人(ぎょうじん)は、摂取不捨のゆゑに正定聚(しょうじょうじゅ)の位(くらい)に住(じゅう)す。
このゆゑに臨終まつことなし、来迎(らいこう)たのむことなし。
信心の定まるとき往生また定まる」(同735ページ)のです。

正定聚とは、必ず仏になることが決まった人々のことで、信心の行者のことです。
そのご信心はもう退かないので「不退転」ともいいます。
「現生(げんしょう)正定聚」は親鸞聖人ならではのみ教えです。

ひたすらに聞法の道を
このような深くありがたいみ教えを聖人はあきらかにされました。
それに引きかえこの私は、なにごとにつけても自分中心の身勝手な気持ちから抜けきれません。
どうしてみても心の芯は自我中心です。
「恥づべし、痛(いた)むべし」との聖人のお言葉が身にしみます。

このうえは、本願力の『肩車』におまかせした人生を歩めるように、ただただ「本願のおいわれ」を聞かせていただくほかありません。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/