彼岸からの道 みんなの法話
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彼岸からの道
本願寺新報2006(平成18)年9月20日号掲載
奈良・善正寺住職 石川 欣也(いしかわ きんや)
お隣さんも遠いご親類
私は毎年、愛用のバイクで、四十年前に亡くなった教え子と二十数年前にお仕えした校長先生のお墓参りに、奈良市内の共同墓地へ出かけます。
そんな時、僧侶姿の私に安心してか、見ず知らずの地元の方々が気安くお声をかけてくださいます。
昨年も中年の奥さんが、「隣のお墓には、もうずっと誰も参って来られませんが、こんなことでは罰が当たりませんか」と真顔でお尋ねになりました。
「仏さまはお慈悲の方です。
仏となられたご先祖が、かわいい子どもや孫たちに罰を当てたりされるはずはありませんよ。
いつでも、どこでも、私たちを見守っていてくださるのが仏さまですから。
そんなことより、あなたのご先祖をたどっていけば、お隣さんもきっとお宅の遠いご親類ですよ。
なぜって、あなたのお父さんとお母さんで二人でしょ。
おじいさんとおばあさんで四人、こうやって単純に数えてゆくと、十代前で千二十四人、二十代前ではなんと百万人を超すんですから。
無限に増えるのはおかしいでしょ。
つまり何代もさかのぼれば同じ親にあたるということです。
今度お参りされる時には、お隣さんのお墓にもお花とお線香をお供えしてあげてください。
きっと大喜びですよ」とお答えしました。
および声が念仏となり
また、何年か前には、九十二歳のおばあさんが、「お寺さん、私が両手あわせて『おかあちゃん、また会いに来たで。
こんなに長生きする丈夫な体に産んでくれてありがとう』と言うてお念仏申すとな、おかあちゃんの声が聞こえますねん。
お盆でも、お彼岸でも、いつでもですわ。
なんでですやろ」とのお尋ねです。
「それはな、おばあさん。
今日はあなたのかい性でお参りしたとお思いでしょうが、そやないで。
仏さまに成られたお母さんによばれて、ここへお参りされたのですよ。
お浄土のお母さんは、ひと時の休みもなく、自分の歳をはるかに越えたあなたに、『いつもおまえを抱きづめの親がここにいるよ』と、よび続けていらっしゃるのです。
だからその声がお念仏となって、あなたのお口からこぼれ出てくださったのにまちがいありません。
あなたがお母さんを偲んでお念仏される時、あなたは仏さまと一つのいのちを生きていらっしゃるのですよ」と申し上げたことです。
彼岸の再会心に期して
私は今年のお正月、「男たちの大和」という映画を見ました。
あの戦艦大和が、片道の燃料で沖縄へ特攻出撃する日、三千三百余名の兵士たちが、祖国日本に最後の別れを告げます。
その時、十六、七歳の少年兵たちに二十一歳の青年士官が「死ニ方用意」と命令し、その声に促されて甲板に駆け上がった少年兵たちが声を限りに「オカアサーン」と呼ぶシーンは、とめどなくほおを伝う涙とともに、思わずお念仏があふれ出る私でした。
「お母さん」と母をよぶ言葉は、わが子より先に母自身が名乗った言葉であり、そのひと言には、どんなことがあってもお前を一人前に育てて見せるという母のいのちの誓いが宿っているのです。
少年兵たちの叫んだ「オカアサーン」も、九十二歳のおばあさんが語りかける「おかあちゃん」も、共に母によばれて母をよぶ姿であり、その時、そのひと声の中に、母と子のいのちは固くひとつに結ばれているのです。
同じように、私の口にかかってくださるひと声のお念仏は、私に先立って「お願いだから、あなたのいのちのすべてをこの私にまかせて安心して生きておくれ」とおっしゃる、彼岸からの仏さまのよび声なのです。
彼岸への道は彼岸からの道です。
真っ赤に群れ咲く曼珠沙華(まんじゅしゃげ)や母の手作りのおはぎに象徴される秋のお彼岸には、お墓参りもさることながら、まず何よりもお近くにある親鸞さまのお寺にお参りし、家族そろって今お浄土から聞こえてくる仏さまのみ教えに耳を傾け、やがていつの日か、往(ゆ)きし人々との西方極楽浄土での再会を心に期して、西空に沈みゆく夕日に彼岸を想い、お念仏申したいものですね。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |