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自分勝手なありがとう みんなの法話

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自分勝手なありがとう
本願寺新報2007(平成19)年1月10日号掲載
布教使 立川 証(たちかわ さとし)
いつも感謝してるなら

結婚記念日のことでした。
つれあいに「いつも感謝しているよ」と言いました。
笑顔でキスでも返ってくるかと思っていたら、「あら、いつも感謝しているなら、いつも態度にあらわしてほしいわ」と言われてしまいました。

「思いというものは必ず形になるものだ」と誰かが言っていましたが、日頃から形になっていなかった感謝の思いは評価されるものではなかったようです。

感謝しなくていいから家事をもっと手伝って。
それがダメならせめてちらかさないで、という声が聞こえてきたように感じました。
「いつもありがとう」ではなく、「いつもごめんなさい」と言うべきだったかもしれません。
育児に洗濯、掃除に料理・・・。
大変そうなことをやってくれているおかげで休んでいられるから"ありがとう"ではなく、自分もどんどん手伝って早く終わらせて、二人で映画でも見る時間を作るように心がけながら過ごし、次回には楽しい結婚記念日を迎えたいと思いました。


気づけない日常の恵み
これまで私は、法話のときに「感謝の気持ちを持って生きることが大切です」と言ってきました。
いただいている恵みに気づいていくという感謝の営みが、人生を豊かに過ごすために大切であると言えば、多くの人にうなずいてもらえるとは思うのです。
しかし、自分自身、常に感謝の気持ちで生活するということはそう簡単なことではありませんし、ずいぶん自分勝手な感謝しかしていなかったのではと、あらためて考えさせられました。

「ありがとう」という感謝の言葉は、有り難い、めったにないという言葉です。
いつもと違ううれしいことがあった時には、ありがとうの気持ちも自然にわいてくるのですが、特別なことがない時にはあまり恵みを感じることはできません。
当たり前の恵みにはなかなか気づけないのが私たちです。

例えば、健康な時に健康であることのありがたさをしみじみ感じることはありません。
病気やケガをした時になってはじめてそのありがたさに気づくものです。
しかし、せっかく気がついた大きな恵みであっても、治ればまたそれが当たり前となり、そのありがたさは忘れがちになってしまうものでしょう。

停電が直った一瞬だけスイッチを入れれば明かりがつくことを喜び、断水になってはじめて蛇口をひねれば水が出ることに感謝の気持ちを持つことができる。
どんなに必要不可欠な大切なものであっても、常にあるものには慣れっこになっていてなかなか感謝できません。

特にいいことも起こらない当たり前の日常に感謝しようとする時は、なにかしら不幸な状況と比べてみようとしてしまうのです。

他人の不幸喜ぶわたし
よく大きな災害が起こった時に、「あっちではあんなにひどいことになっているけど、こっちはおかげさまで大した被害もなくてけっこうですね」と無事を感謝して喜んでいたりしますが、それもよく考えてみると他人の不幸を見つけては喜んでいるように聞こえます。

「おかげさまで」という言葉も何気なくいつも使っている感謝の言葉ですが、おかげさまのひと言で、泣いたり困ったりしている人の痛みを自分から切り捨ててしまってきたのではないでしょうか。

すべての衆生を救いたいという阿弥陀さまの願いが、分け隔てなく十方に向けられていることを聞くときには、他人と比べて一喜一憂している自分たちの営みが空しいものであることを知らされます。
ひとりよがりで気まぐれな感謝の殻に引きこもって動こうとしない私をめあてに、当たり前のように絶え間なく注がれている願いの形が「南無阿弥陀仏」の名号でありました。

喜べるところだけ喜んで、都合のわるいことには眼をふさいでいる私に、他人をおとしめたりおとしめられたりしなくていい真の安心を届けようとよび続けていらっしゃるのです。

「ありがとう」や「おかげさま」と思った時こそ、自分勝手な感謝になっていないかよくよく気をつけるべきかもしれません。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/