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「お育て」をいただく みんなの法話

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「お育て」をいただく
本願寺新報2007(平成19)年6月1日号掲載
布教使 武田 公裕(たけだ こうゆう)
流産で手を合わす生活

あるご門徒の家にお参りに行った時、そこの奥さんから、息子さん夫婦のお話を聞かせていただきました。

息子さんは東京でお嫁さんと子どもの三人暮らしです。
昨年、お嫁さんが二人目のお子さんを懐妊されたのですが、五カ月で流産されたそうです。
夫婦ともに深く悲しまれ、親族の皆さんも大変残念がられたそうです。

五カ月での流産ということで、骨もしっかりそれとわかるものなので、胎児であっても立派な一人の人間の死として対応したいと息子さんは思われました。
その場合、一般的な現代の日本人なら、いわゆる「水子供養」をしてくれるお寺を想像するのではないかと思いますが、その息子さんは違いました。

というのも、そのご家族は亡きおばあさんをはじめ、家族みんなでお念仏の教えを喜ばれ、息子さんも小さい頃から日曜学校などで仏法に親しんでいらっしゃいました。

ごまかさず受けとめる
息子さんがとられた行動は、まず築地本願寺に電話をされ、自宅近くの浄土真宗のお寺を紹介してもらい、家族でそのお寺にお参りされました。
そこのご住職に丁寧におつとめしていただき、ご法話を聞かせていただき、法名をいただかれたそうです。

その日以来、それまではあまり仏法にご縁がなかったお嫁さんも、毎朝晩、自宅のマンションにある小さなお仏壇のご本尊に手を合わせるようになられたそうです。

その話の最後に、奥さんが「五カ月で流産した胎児は、もしかしたら仏さまかもしれませんねえ。
仏さまがわざわざお嫁さんのお腹(なか)に宿られて、わざわざ五カ月で流産という形をとられて、お嫁さんを仏さまに手を合わせるよう育てられたのではないかしら。
そのことをお嫁さんのお母さんにお話したら、お母さんもそうかもしれませんねと喜んでおられました」と話されました。

流産ということは大変悲しいつらいご縁ですが、それを仏縁として、ごまかすことなくしっかりと受け取り、力強く生きていく念仏者の姿を聞かせていただいたことでした。

日々の営みの中で聴聞
実は今、私の妻は三人目の子どもを妊娠しています。
前の二人のときと同様に、この子の場合もつわりが非常にひどく、吐き気で横になったままなので、家事がほとんで出来ない状況です。

そこで母や父と協力しながらですが、子守りや掃除、洗濯、食事の準備や後片付けなど、私のしなければならない仕事がたくさん増えました。

慣れてないことをするものですから思うように出来ず、他にもやらなければならないこともたくさんあるのになあと、ついつい不平不満を言ったり、ため息をついたりしてしまいます。
妻もつわりで自分の思うように動けず、ストレスもたまっており、夫婦で言い合いになることもしばしばです。

しかし、そのような時に、先ほどの流産されたご夫婦のお話ではありませんが、私自身も、仏さまから尊いお育てをいただいていることに気づかされるのです。

家事のしんどさも考えず、それを当たり前のように妻に任せきっていた自分の傲慢(ごうまん)さ、懐妊という有り難いご縁をいただきながらも不平不満を言ってしまう自分の愚かさ・・・。

そして阿弥陀さまのご本願は、私のような「深く重い罪を持ち、激しい煩悩をかかえて生きるものを救おうとしておこされた願い」(『歎異抄』第一条・現代語訳)であったことを、妻の懐妊を通じてあらためて気づかせていただきました。

人生に起こるさまざまな出来事も突き詰めていくと阿弥陀さまからの尊いお育てです。
これからもついつい不平不満が出てきたり、ため息をつくこともたくさんあると思いますが、これも大切なことを教えていただく仏縁と受け取らせていただき、お育てにあずからせていただきたいと思います。

苦悩を乗り越え今を精いっぱい生き抜く力を阿弥陀さまからいただく、そこに浄土真宗の素晴らしさがあり、この教えを日々の営みの中で聴聞させていただきます。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/