心のブレーキ みんなの法話
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心のブレーキ
本願寺新報2007(平成19)年6月20日号掲載
北海道・双葉高校教諭 櫻井 法道(さくらい ほうどう)
格差社会に事件や事故
昨今の報道される事件や事故の背景には、人間が「勝ち組」「負け組」と区別される「格差社会」があります。
またそのような言葉が氾濫(はんらん)する中で、自殺者が毎年三万人を超え、親が子を殺し、子どもが親を殺す痛ましい事件も多発する時代となりました。
そこでは、事件を起こす前に、それを思いとどまることができる力の「ある」「ない」が、「その時」の判断と結果を決めてしまいます。
いくら好きでも「してはならない事」と、いくら嫌でも「やらなければならない事」の分別(ふんべつ)する力が今求められています。
「してはならない行動」を「止める」(ブレーキ)力があるかどうかは、その時、何が想像できるかという力にかかっていると思います。
「いのち」を軽視しようとする時に想像力を働かせ、行動にブレーキをかけられる力が、大人にも子どもにも必要であり、今求められているのではないでしょうか。
その背景となるのが、人が育てられる環境です。
「家庭」「学校」「職場」などの中でその力が養われるのだと思います。
一日の始まりに「合掌」し、目に見えない仏のはたらきに気づかせていただく「いのち」の知恵を学ぶ環境作りこそ、今、問われている大切なことではないでしょうか。
弱い人間も想像力もつ
教育現場でも知識だけでなく、人間の情操(心の栄養)を育てる役割も注目されるようになって久しいのですが、相変わらず社会は「いのち」に対しても、無意識のうちに価値付けがなされ、「いのち」をお金(値段)で換算し、事件や事故も解決方法として保険金が支払われる時代です。
いわば貨幣経済、経済優先の社会なのです。
しかし、阿弥陀さまの智慧に照らされてみると、ありとあらゆる「いのち」は、私の意志を超えて仏さまから慈しみと願いをかけられた、尊い不思議な「いのち」であることに気づかされます。
その証拠に、お金を積んでも、自分の意志で「誕生」や「命日」を決めることは出来ません。
本来、「いのち」は自分の思い通りにならないものです。
昔から「授かりもの」などといわれるのは、そこに由来するのでしょう。
このことを忘れ、「いのち」は自分のものだと勘違いをし、値段を付けたり、優・劣を決めるようになりました。
まさしく格差の価値を問う社会。
それゆえ「勝ち組」「負け組」といった言葉が新聞紙上などで多く目に触れるようになったのです。
「勝つこと」に価値が置かれ、「強くなる」ことが求められ、繁栄こそが謳(おう)歌される時代となったのです。
しかし、もともと人間は「孤独」で「弱い」存在です。
古来、西洋のパスカルも「人間は自然のうちで最も弱い葦(あし)である」と言っています。
大いなる自然の前には人間は本当に弱い存在だと言えましょう。
また彼は「考える葦」であるとも言っています。
すなわち「想像力」を持っているのが人間の証(あかし)であると言っているのです。
すべての命本願の中に
「勝つ」ことの中には、相手の痛みや悲しみが想像できなくなることが多くなります。
強くなると相手の痛みや悲しみに気づきにくくなるのも事実です。
自分の「いのち」は自分の意志を超えて、阿弥陀さまから願われている「いのち」であることを改めて気づかされた時、生かされていることはどういうことなのかを「想像する力」が備わってきます。
この「生きている」そのままの事実が「不思議」としか言いようのない事実であることに気づかされます。
その時、初めて人間としてどう生きるか、という「生き方」が問われ、生かされていた現実を知るのです。
この「いのち」の現実をしっかりと見つめ、自分を見ていくと、苦しくとも、どんな時にも「生かされている」ことに気づかされます。
あらゆるいのちを救いとろうとする大いなるはたらきこそ、阿弥陀仏の本願であり、その願いの中にすべての「いのち」があることに気づかされるのです。
自らの「孤独」や「弱さ」に気づかされたものこそ、他の「いのち」に対するやさしさや思いやる心を知るのではないでしょうか。
その気づきこそ、「その時」の行動を慎む心の「ブレーキ」として、確かなはたらきを果たすのではないかと思います。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |