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渡る世間は鬼ばかり? みんなの法話

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渡る世間は鬼ばかり?
本願寺新報2007(平成19)年8月1日号掲載
龍谷大学非常勤講師 内藤 昭文(ないとう しょうぶん)
「私」自身も世間の1人

テレビの人気長寿番組に「渡る世間は鬼ばかり」というドラマがありますが、みなさんはよくご覧になっているのでしょうか。
このタイトルの言葉、どんな意味だと思いますか。

「私は一生懸命に生きているのに、世の中の人々はその私の邪魔をして、やりたいことを妨害してばかりだ」という意味に考えて使っているのではないでしょうか。

私たちは、自分に都合のよいことや得することを「善」という一方、不都合なことや損することを「悪」とか「魔」と呼んでいます。
さらに、自分の都合の悪いことや思い通りにならないことを他人のせいにして、その人を「鬼」と考えていないでしょうか。

でも、「私」もその世間の一人なのです。
「渡る世間は鬼ばかり」の世間の一人だと気付いているでしょうか。

「世間」とはもともと仏教用語で、本来生きている衆生(しゅじょう)(私)を第一義として「有情(うじょう)世間」といいます。
その「私」が生きている場所を「器(き)世間」といいます。
したがって、世間とは、「私」と、その「私」が作り出している社会(世の中)の両者の意味をもちます。

重要なことは、その「私」が欠落したものを世間とは言わないということです。

魔の正体は我執・煩悩
その「私」は、自分のことしか目がいかず、自分のことしか考えていません。
周りの人のことを考えているといっても、いつも自分の都合や立場からの目線でしか見ていません。
お釈迦さまはこのような自己中心の心(煩悩)を「我執(がしゅう)」という言葉であらわされました。

お釈迦さまが悟りを開いた場面を伝える逸話を「降魔成道(ごうまじょうどう)」と呼びますが、そこでは「魔」を世間的な善を説く神々の仮面をかぶった「善の権化(ごんげ)」としても表現されています。
「魔」が神々の姿をとって現れ、正しく生きることを邪魔するのです。

私たちは自分の都合で自分の欲望を充足させようと神々に頼みます。
その自己中心の欲望を充足させようとするものこそ「魔」であり、その正体が「我執」と呼ばれる煩悩なのです。

それを「魔である」と見破ることができる智慧を完成させようと励む方々が「菩薩」と呼ばれ、完成させた方が「仏陀」なのです。

一方、「魔を魔である」と見破れず、「悪を悪である」と気付かず「邪を邪である」とわからない私たちを凡夫というのです。

毎日の日暮らしの中で、私たちは「自分がすればこそ・・・」とか「自分がいればこそ・・・」とか考えたり、発言したりしていないでしょうか。
この「こそ」を自分の側につけることこそ、自己を正当化し絶対化している姿です。

さらに、その自己を護るためにトラブルや争いが始まるのです。
自分を邪魔したり、やりたいことの障碍(しょうがい)になるものを「鬼」とか「魔」とか呼び、他者を否定し傷付け苦しめるばかりか、自分も苦しみ傷つくのです。

無明照らす智慧の光明
「あなたがしてくれればこそ・・・」とか「あなたがいればこそ・・・」と、相手に「こそ」をつけてみませんか。
そうすると、自分が一人で生きているのではなく、いかに多くの人々に支えられ生きているかが感じられ、感謝の思いが生まれると思います。

さらに、いかに他者の「こそ」を自分勝手に盗んで自分のものにしていたかに気付かされると思います。

「渡る世間は鬼ばかり」の鬼とは私自身のことであり、それを自分以外のことにしているのが我執の姿です。
そんな私の姿を知らしめる光明が智慧のはたらきであり、その私を必ず救う光明の温かさが慈悲のはたらきです。

それこそが「南無阿弥陀仏」の名号なのです。

<pclass="cap2">無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり
智眼(ちげん)くらしとかなしむな
生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり
罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ
(正像末和讚(しょうぞうまつわさん)・註釈版聖典606ページ)

私自身の煩悩(無明)の闇を破られながら、念仏申して、自らの人生をしっかりと生き抜かせていただきたいと味わっています。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/