操作

父さん ありがとう みんなの法話

提供: Book

2009年7月29日 (水) 11:14時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版 (1 版)

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)


父さんありがとう
本願寺新報2008(平成20)年3月20日号掲載
滋賀・純正寺住職 漢見 覚恵(あやみ かくえ)
「彼岸」とはさとりの世界

「お彼岸さん」と呼ばれ、とてもなじみの深いこの季節。
「彼岸」とは、仏教でこの世を迷いの世界「此(し)岸」と呼ぶのに対して、さとりの世界をあらわす言葉です。
私たち浄土真宗では、このお彼岸を「お浄土」と呼ばせていただきます。
では「お浄土」とはどんなところなのでしょうか。


もうなにもせんでええ
私の父は、今から十七年前の三月九日、五十六歳でその生涯を終えました。
生まれつきのB型肝炎ウイルスの保菌者であった父は、私が生まれた頃に急性肝炎を発病しました。
多用な毎日に、治療も十分に受けなかった父は、気がつくと肝硬変から末期の肝臓がんになっており、入院を余儀なくされました。

病院のベッドの上で父は臨終の前日、その末期症状のひとつである、食道の静脈瘤(りゅう)が破裂するという厳しい状況にありました。
見ている私たちも苦しくなるような状況の中、主治医の先生が止血をしようとされました。

しかし、父はそれを断りました。
先生は私を呼び「処置を受けるようお父さんを説得してほしい」と頼まれました。
私は父の病室へ行き、父に「なあ、父さん、しんどいやろ。
先生が止血したいと言うてはるんやけど、どうする?」と尋ねました。

すると父は「ああ、しんどいよ。
苦しいよ。
せやけどな、わしのいのちはもう、阿弥陀さんに全部預けてあるさかい、もうこれ以上何もせんでええ」と言いました。

「阿弥陀さんに全(すべ)て預ける」という言葉は、「自分のいのちはお浄土に向かういのちなのだ」という意味です。

父の言葉を聞いて気づかせていただいたのは、お浄土が病の苦しみそのままにそのいのちを生ききろうとする父の、生きる力の源であったということでした。

明くる日、父は息を引き取りました。

私は父の遺体に向かい、ただ「父さん、ありがとう」としか、かける言葉が見つかりませんでした。

悩み生きる命の目的
昨年の三月九日は、そんな父の十七回忌のご法事でした。
にぎやかなご法事も無事終わり、後片付けも済ませて、家族で夕食をいただいていました。
すると、中学生の娘が「ちょっと本堂へ行ってきてもいい?」と、先にごちそうさまをして席を立ちました。

でも、十分経っても十五分経っても娘は本堂から帰ってきません。
少し心配になった私が本堂に様子を見に行くと、娘は本堂に懸けてある父の肖像画の掛け軸の前に一人ぽつんと立っていました。

私は、娘の後ろまで近づいて、背中越しに「どうしたんや」と言いました。

すると娘は「あんな、ここにいるとな、なんか安心するんよ」そう言ったかと思うと、クルッと私の方に向きを変え、声をあげて泣き出したのです。
私は娘に言いました。

「どうしたん、おじいちゃんがいないのが、寂しいんか?」

すると娘はこう言ったのです。

「ちがうんよ。
あのな、おじいちゃんが私のこと、一番わかっていてくれるんよ」

娘は、おじいちゃんに会ったことは一度もありません。
だって、父が亡くなった二年後に、娘が生まれたのですから。
でも、私の目の前で今、娘は間違いなくおじいちゃんを感じているのでした。
私は心の中で言いました。

「父さん、忘れていてごめんな。
父さんは、お浄土のはたらきになって、ずっと息子や孫に寄り添っていてくれたんやな。
父さん、ありがとう」

お浄土とは、生きることに無関係なところに追いやられた、単なる死後の世界ではありませんでした。
それは、日々さまざまな悩みを抱えて生きる私の、いのちの目的地でした。

そして、それは同時に、お浄土のはたらきに包み込まれている「今、ここ」が、私のいのちの現在地でもあったのでした。

泣いている娘をこの腕にしっかりと抱きしめながら、うれしくて、うれしくて、私も溢(あふ)れる涙を止めることができませんでした。

春のお彼岸の頃になると思い出す、阿弥陀さまと父さんと娘が私にしてくれた、うれしい、うれしい、お話でした。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/