操作

自分の姿を聞く みんなの法話

提供: Book

2009年7月29日 (水) 11:14時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版 (1 版)

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)


自分の姿を聞く
本願寺新報2008(平成20)年9月10日号掲載
本山・布教研究専従職員 佐藤 知水(さとう ちすい)
深刻なイノシシの被害

近年、全国的にイノシシが増え、山奥から下りてきて、民家の辺りに多く出てきているようです。
これも地球温暖化などの自然環境の変化に関係しているとも言われています。
私の住む岡山県の山間部でもイノシシによる農作物への被害が深刻で、一部駆除も行われています。

私が僧侶として仏教の勉強を始めた頃のことです。
あるご門徒さんのお宅にお参りした時、その方が真剣なお顔をされて、私にこのような質問をされました。

「若院さん、阿弥陀さまから見たら、罠(わな)をしかけてイノシシを捕まえるわしと、それを鉄砲で撃って持って帰ってくれる猟友会の方と、どちらが罪深いんですかのう?」

私は戸惑いましたが、少し考えてこう答えました。

「きっと阿弥陀さまからご覧になったら、ご主人さんあなたも、猟友会の方も、そして毎日お肉やお魚を食べて生活しているこの私も、命をいただいているというところで、同じ罪の深さだと思います」

するとご門徒さんは「そうけえのう?」と、少し悲しげな顔をしてうつむかれてしまいました。

私には、どうして納得されなかったのかわかりませんでした。
仏教の勉強をしていましたから、間違ってはいないはずだ...と思いながら家に帰りました。
しかし、そのご門徒さんの悲しそうなお顔がしばらく忘れられませんでした。


「うまい」「まずい」だけ
その時のお話によると、時々、イノシシが親子で捕まっていることがあるそうです。

ご門徒さんは「これはわしの想像じゃけど、ウリボウ(イノシシの子ども)が捕まったら、親イノシシがウリボウを助けにきているんじゃあないかなあ?朝、罠を見てみると、親イノシシがウリボウを逃がそうとして、柵に鼻をドーンドーンとぶつけて、鼻が血まみれになっていることがある。
そういうのを見たら、わしはむげえのうと思うんじゃ」と言われていました。

その時のことを何度か思い返すにつれて、私は自分の言葉に疑問を持つようになりました。
私はご門徒さんに、私も同じだけ罪が深いと言いましたが、本当にそう思っていたのでしょうか。
私は今まで食事をいただく時に「むげえのう」と思いながら食べたことは一度たりともなかったのです。

ではどのようなことを思っていたかというと、「うめえのう」とか「まずいのう」とかだけ思って食べていたのです。
そこに私の命と同じ、かけがえのない命があったということに気付かず、ずいぶんともったいないことをしてきたように思います。
そして、そのことを自分のこととして受け止めることなく、知識として、どこか他人事として、仏教をご門徒さんに説いていたのです。
ご門徒さんの思いに寄り添えなかった自分が、その時、恥ずかしくなりました。

深い懺悔と感謝の思い
そのお話から2年後の報恩講の時、再びそのご門徒さんのお宅にお参りに行きました。
そこで私は「ご主人さんのおかげで、むげえことをしながら、むげえとも思っていない自分に気付かせていただきました」と、お礼を言いました。

すると今度はニッコリ笑って「若院さん、ずっと思っていてくれたのか。
ありがとう」と、うれしそうに言われました。
そして、帰ろうとする私に「若院さん、イノシシのお肉持って帰るか」と言ってくださいました。

私はご門徒さんと心が通った気持ちがして大変うれしかったです。
その時、これから生涯かけて、ご門徒さんと一緒に、自らの姿を阿弥陀さまのみ教えに聞いていこうと決意しました。
</p>親鸞聖人は、阿弥陀さまがご覧になられたご自身のお姿を「罪悪深重(じんじゅう)」と示されました。
生きている限り、深くて重い罪をつくり続けるこの私、そしてそのことになかなか自分では気付けないこの私を、決して見捨てず、救わずにはおられないとはたらいてくださる阿弥陀さまの大きなお慈悲のお心に出遇(あ)われました。
そして深い懺悔(ざんげ)の念と同時に感謝の思いの中で、ご自身を深く見つめていかれたのです。

今、私は「いただきます」と手を合わせる中に、阿弥陀さまのお慈悲のお心が思われます。
ご門徒さんの笑顔と共に。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/