父と同い年の私 みんなの法話
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父と同い年の私
本願寺新報 2009(平成21)年3月1日号掲載
橋本 正信(はしもと しょうしん)(神奈川・来恩寺住職)
この歳で この若さで
私の父は27年前に51歳でお浄土に往生しました。
一昨年、私も51歳となり、誕生日が父より2日早い私は、父の命日の2日前に父とまったく同じ年月日を生きたことになりました。
その父とまったく同(おな)い年(どし)となった日、父を偲びながらいろいろ考えさせられましたが、最初に感じたことは「父はこの歳で生涯を終えたのか」という驚きのような感覚でした。
平均寿命が50歳代であった昭和の初期と違い、父の亡くなった27年前は平均寿命が70歳を超えており、現在では男性も80歳に近づいておりますので、これといって身体に異変のなかった私としては「この若さで、この歳で...」という感慨が実感としてありました。
次に考えたことは「父は何を思いながら生涯を終えたのか」ということでした。
そして「私なら...」と自らの死も深く考えさせられました。
「私なら何を思いながら生涯を終えるか」の自問に対して、それは遺(のこ)していく者、特にまだ幼い3人の子どもたちの「幸せ」を願いながら生涯を終えるだろうことは容易に想像することができました。
おそらく〝同い年〟の父も遺していく者の「幸せ」を願いながら生涯を終えたのだろうと想像いたしましたが、次に出てきたのは「じゃあその幸せって何だろう?」という疑問でした。
左手の自由を失う
父が私に願う「幸せ」とはどういうものだったのか。
私が子どもたちに願う「幸せ」とは何なのか。
父の願う「幸せ」を私は手に入れたのか。
父は「幸せ」だったのかなど、その日私は、難問ではありますが大切なことを考える機会を父から与えられているように感じました。
一人っ子であった父は高校生の時に両親を相次いで亡くし、ご門徒のお世話や励ましをいただいて高校・大学を卒業し、早くに結婚して住職としてお寺を守ってきたと話していました。
また、29歳の時、交通事故で左手を複雑骨折して左手の自由を失いましたので、お参りのときは右手に念珠を持ち右手だけを胸の高さにあげ、お念仏を称(とな)え礼拝をしておりました。
食事の時もご飯茶碗を茶筒の上にのせ、右手だけで食事をしておりました。
高校生の時、棒高跳び近畿大会2位という成績を挙げたスポーツマンの父にとって、それは相当つらいことであったと思うのですが、父の口から、早くに両親を亡くしたことや、身体の不自由さに対する愚痴(ぐち)を聞いたことは1度もありませんでした。
父の生前の姿や所作を思い出す時、父はいつも笑顔なのです。
そして「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と父の称える大きなお念仏の声が聞こえます。
実際父は、起きている時は一日中大きな声でお念仏を申しておりました。
トイレの中からもお念仏の声が聞こえてきましたので「いまトイレに入っている」とか「いま裏庭にいる」などと、父の所在がわかりました。
また父は、近所のご住職さんたちと町の小料理屋さんなどでお酒を飲む時も、大きな声でお念仏を称えますので、近所のご住職さんが「すぐに職業がわかってしまう」と笑いながら私たち家族に報告してくれたのを思い出します。
何ものにもかえ難い
父は51歳という年齢でこの世を去りましたが、父のお念仏の声を想(おも)う時、父はいつも阿弥陀さまと一緒の人生であったのだと思います。
両親を亡くした時は本堂の阿弥陀さまや、お内仏の阿弥陀さまの前で寂しさに震え、涙を流した日も1度や2度ではなかったと思います。
また、不自由な左手になった時も「何で私が...」と、愚痴がこぼれた日もあったことと思います。
でも、その涙や愚痴がいつの日からかお念仏に変わったのでした。
私の知る父はいつもお念仏の中におりました。
そんな父の生涯を想うとき、父は幸せだったのだと思います。
そして、父の慶(よろこ)んでいたお念仏の生活を私も送らせていただきたい、子どもたちにも知ってもらいたいと思いました。
それが何ものにもかえ難い「幸せ」だと父から教えてもらっていたのだと、父と同い年になったその日、私は気づきました。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |