「いのち」との出遇い みんなの法話
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「いのち」との出遇い
本願寺新報2001(平成13)年6月1日号掲載
井上 恒夫(いのうえ つねお)(願船寺住職)
思いあがりに気づく
え.秋元裕美子
わたしたちは、この世界に人間として生まれてきました。
他の生きものとしてではなく、人と生まれてきたのです。
今から約二千五百年前、北インド・カピラ城の王子シッダルタ太子(後の釈尊)がお生まれになった時、太子は、七歩歩(あゆ)まれて、天地を指して「天上天下、唯我独尊」と、宣(の)べられたと伝えられています。
もちろん、生まれたばかりの人が歩き、言葉を語るはずはありません。
このエピソードの意味することは、釈尊の教えである「仏法」は、
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1.六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)という迷いの世界を超えて、真実に目覚める道
を生きることであり、
2.「いのちの尊さ」に目覚める教えである
ことを、簡潔に教示されたものといえます。
わたしの「いのちの尊さ」に目覚めることは、他のいのちを見下し、自分ひとりの力で生きていると思いあがったり、自分だけが良ければいいということではありません。
恵まれて生かされて
幼稚園や保育園では、毎月一回の「誕生会」を、仏前でいたします。
園児たちの顔はとても輝いて見えます。
園長としてお祝いの言葉にそえて、
「お誕生の日は、ご馳走してもらったりプレゼントをいただく日だと思っているかも知れないけれど、もうひとつ大事なことがあるんだよ。
それは、お父さんお母さんからいただいたいのち。
そして家族やたくさんの方々の願いに支えられ、お魚やお肉、お野菜のいのちをいただいて大きく育てられてきたいのちであったことを教えてくださったみ仏さまに、『ありがとうございました』と、お礼を申し、たくさんのお方がたやたくさんのいのちに、『おかげでこんなに大きくなりました。
ありがとうございました』と、お礼を言わせていただく日なんだよ」と、お話することにしています。
「いのち」は、恵まれたもの。
支えられ育てられ、生かされているものでしょう。
この一月に初孫を恵まれ、日々成長しているすがたが楽しみです。
お産を前に、里帰りしていた娘が親になる心の準備をしているすがたを見たり、お産の様子を聞くことでした。
お乳を飲み、排泄をくりかえして育ちつつある「小さないのち」が、親はもとより、曾祖母・祖父母たちに、大きな感動を与え、見えなかった世界をあらためて気づかせてくれました。
見えないものが見える
『わが誕生の日は、母、受難の日であった』との言葉は、表には見えないけれども、わたしの気づかないところに、大変な世界・なくてはならない世界があったことを、「智慧」によって気づかされる言葉です。
わたしもあなたも、母が身を裂き、苦痛の中に、「いのち」を誕生させてくださったのです。
「わたしのいのちの尊さ」にまず気づかせていただくことを通して、「他のいのちの存在」が尊ばれていくのではないでしょうか。
そこに他(自分以外の人やいのちあるすべてのもの)を思いやる心と共に、「どのいのちも尊し」ということにわたしの視点が拡(ひろ)がり深まっていく、ものの見方と生き方が心あらたになっていくのです。
「いのちの誕生」をはじめとして、わたしたちはまた、老いていくこと、病をかかえ、そして必ず死んでいく人間(私)のすがたに出遇(あ)っていくことでしょう。
どのすがたも、わたし自身のこれまでのすがたであり、これからのすがたです。
そのひとつひとつのご縁が「いのちとの出遇い」であり、他人事ではなかったと気づかされたとき、わたしの「いのち」が深まり、阿弥陀さまの『無量寿(かぎりないいのち)』に救われ、『無量光(かぎりない智慧の光)』に照らされているご縁とよろこびが味わわれていくのではないでしょうか。
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ひとの 生を
うくることはかたく
やがて 死すべきものの
いま いのちあるは
ありがたし
正法(みのり)を耳にするはかたく
み仏の 世に出づるも
ありがたし
『法句経』一八二
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |