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わたしという名の花 みんなの法話

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わたしという名の花
本願寺新報2003(平成15)年5月1日号掲載
滋賀・純正寺住職 漢見 覚恵(あやみ かくえ)
本を通して気付きあう

毎週火曜日の朝、私は娘たちの通う小学校へ、本の読み聞かせに出かけます。
読み聞かせというよりも、子どもたちと一緒に本を読むことを通して、大切なことに気付きあっていきたいというようなことなのですが。
私がこんなボランティアを始めて三年目になります。

毎回、違うクラスに出向きますが、クラスの雰囲気は同じ学年でも違います。
また、同じクラスの中でも、本や本を読む私への反応は子どもによってそれぞれで、静かに聞く子、ノリのいい子、邪魔をする子、聞かない子などさまざまです。

でも、これって当たり前ですよね。
子どもたちの行動には、それぞれいろんな違った背景があるのですから。
ところが、このように人の話をみんなで静かに聞くことのできないクラスを、私たちは「問題のあるクラス」だと言ってしまいがちです。

違ってちゃだめなの?
そんなある火曜日、いつものように本を読み終えて廊下を歩いていると、六年のクラスから子どもたちの歌声が聞こえてきました。

<pclass="cap2">♪それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で
一番になりたがる?
しばらく立ち止まって聞いていました。

<pclass="cap2">♪そうさ 僕らは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ

この歌は、広い世代から人気のある、男性五人のグループ「SMAP(スマップ)」が歌う『世界に一つだけの花』という歌です。
槙原敬之さんが作詞作曲されました。

花屋さんに並んだいろんな花が、どれもみんなきれいで、争うこともなく、胸を張って咲いている様子を歌っています。
じっと聞いていると、何だか歌っている子どもたちのこころの叫びのように聞こえてきました。

「私たちもみんなこんなに違うのに、なぜ同じじゃなきゃいけないの? 違ったままじゃいけないの?」と。
みんなと同じようにしなければ仲間はずれになるかも知れないこわさと、でも、みんなと違う私のままで認められたいという思い。
子どもだけでなく、大人の多くも抱いているかも知れない思いが、この歌には込められているのでしょうか。

歌を聞き終わって、玄関へ向かう階段を降りていると、壁にこんな言葉がはってありました。

<pclass="cap2">その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

これも同じ歌の歌詞です。
いい歌だなあと思いつつ、私にはひとつの引っ掛かりがありました。
一生懸命になっても咲けなかった花はどうなるのだろうって。

照らされて輝く
『仏説阿弥陀経』の中には、お浄土という世界に咲く蓮の花の姿が説かれています。
そこには、青い花は青く、黄色い花は黄色く、赤い花は赤く、白い花は白く、それぞれがそれぞれにひかり輝いていると説かれています。

では、なぜそれぞれの色が「ひかり輝く」のでしょう。
それは、そうさせる「光」に照らされているからです。
その光に照らされているからこそ、それぞれの色にひかり輝くのです。

人は、自分の都合に合うものだけを認め、そうでないものを認めようとしない中で、もがき苦しみます。
しかし、そんな私に、ありとあらゆるいのちのひとつひとつが、それぞれに代わることのできないいのちであり、しかもそのいのちのひとつひとつが、それぞれにひかり輝き続けるいのちであると気付かせて下さるはたらきがあります。

それが、阿弥陀さまの不可思議な光のはたらきである「南無阿弥陀仏」なのです。

私たちは、花の種を持って生まれてきたのではなく、すでに誰にも代われない、世界でたった一つの花と咲いて生まれてきたのですね。
色や形を日々変えながら咲き続ける花として。
失敗という色に輝き、悩みというひかりを放ちながら。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/