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父の思い みんなの法話

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父の思い
本願寺新報2003(平成15)年7月1日号掲載
大分・妙満寺衆徒小栗 洋慶(おぐり ようけい)
「おやじの世話にならん」
いま静かに父のことを想う時があります。
父は五年前にくも膜下出血で亡くなりました。

父とは私が高校生のとき、進路のことでよくけんかをしました。
私が龍谷大学に行って将来は僧侶になりたいと話しますと、

「お寺の生まれでもないものが坊主になって飯が食っていけるか」

「もういい、自分で働いて大学に行ってみせる。
あんたの世話にはならん!」

昼はアルバイトをして、夜は龍谷大学で真宗学を専攻しました。
そうして授業料を捻出(ねんしゅつ)し、生計を立てました。
一年目は何とかできましたが、二年目の春、授業料分のお金を思うように貯金が出来ておらず困り果てました。
もうどうすることも出来ずに母親に電話をして授業料を出してもらいました。

送付された父の保険金
「自分で働いて大学に行く。
あんたの世話にはならん!」とたんかを切った私にはこれは完全な敗北です。
数日後、母から授業料分のお金が私の口座に振り込まれていました。

田舎の母に電話し礼をいいますと、

「そう、よかったね。
でもね、そのお金は私のお金じゃないのよ。
そのお金はね、先年亡くなったお父さんの生命保険がおりて、それを新しい口座を作って預金してた、そのお金から取り崩してあなたの所に届けたのよ、だからそのお金はお父さんのお金なのよ」。

母の静かな言葉に、父に対するかたくなな心が崩れていく思いがしました。

親鸞聖人は『高僧和讃』に、

<pclass="cap2">釈迦・弥陀は慈悲の父母(ぶも)
種々に善巧(ぜんぎょう)方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまひけり
(註釈版聖典591頁)

とお示しです。

阿弥陀さまは生きとし生けるものすべてを救う仏さま、おさめ取って捨てないというお慈悲の仏さまです。
そのすべてのものを救うという阿弥陀さまがいらっしゃるよ、阿弥陀さまは南無阿弥陀仏という声となって至り届いて下さる仏さまだよと、懇切丁寧にお説き下さったのがお釈迦さまでありました。

その阿弥陀さまやお釈迦さまは、さまざまにお手立て下さいまして、いま私どもが味わわせていただくところの「無上の信心」を私のこの煩悩のただ中に起こして下さったのです。

「釈迦弥陀は慈悲の父母」―お釈迦さまは慈しみの父、阿弥陀さまは共に悲しんでくれる母のようだよ、とお讃え下さるのがこの和讃であると味わうことです。

先ほどの話、母は何も私に授業料が用意できればそれでよかったはずです。
しかし「そのお金はお父さんがくれたお金なのよ」と、わざわざ私に言ったのはなぜでしょうか?

「お父さんはあなたのことをずっと考え、あなたのことをずっと思っていたんだよ」と、父の思いを理解出来ないわが子に、父の心を知ってほしいという思いからなのでしょう。

無条件の救いならば...
阿弥陀さまのお救いは無条件のお救いとお聞かせいただいております。
無条件のお救いというのであれば、わざわざ私に阿弥陀さまのことを伝えずとも、黙って救いとってお浄土の仏さまにして下さればよいものをと思ったこともありました。
しかしそれは大きな間違いでした。

阿弥陀さまのお救いは、この私のきたない心・寂しい心・煩悩の心のただ中に「南無阿弥陀仏」とはたらいて下さるお救いです。
それは、遠い未来の話ではない、まして過去のことではない。
いま私のこの身の上に実現するお救いであります。
今すでに阿弥陀さまのおはたらきの中にあることを伝えて下さったのがお釈迦さまでした。

私に届く「南無阿弥陀仏」―「安心なさい、必ず仏にする。
あなたを見捨てることはない」と今日も私に寄り添って下さいます。
この仏さまに育てられ、導かれて私も仏さまとならせていただく人生を歩みます。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/