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悔い みんなの法話

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悔い
本願寺新報2008(平成20)年6月10日号掲載
京都女子大学講師 清基 秀紀(きよもと ひでのり)
誰が母親の主治医に

家族や身近な人を亡くすと、人は時間がたつにつれて「悔い」という思いを持ちます。
どんなに充分なことをしても、どんなに良好な関係であったとしても、もっと別の方法があったのではないだろうか、もっとしてあげることがあったのではないだろうかと、そういう思いを持つものです。
突然の別れや、思わぬ形での別れを経験すれば、その思いも強く残ることでしょう。

外科医をしている女性がいました。
治癒困難ながんになった実の母親が自分の病院に入院した時、誰が主治医になるべきか迷いました。
肉親は時として客観的な判断ができなくなることもあるから主治医にならないほうがいいと考え、一番信頼できる医師に主治医を依頼したのです。
しかしその医師は、主治医を引き受けてもかまわないが、娘として自分でできる限りのことをしないと、後で後悔するのではないだろうかと言ったのです。

あらためて考えた彼女は、その先生の言葉を受け入れ、主治医となって最後まで献身的に看護をしました。

昼間の勤務の後には、病室に簡易ベッドを持ち込んで母親の隣で一緒に寝て、母親のための毎日を過ごしたのです。


理屈でわかっていても...
それからしばらくして、母親は亡くなりました。
葬儀の時には、「娘として、そして医師として充分なことをすることができたから心残りはありません」と彼女は語っていました。

しかし、母親の3回忌法要の席で彼女が語ったのは、毎日家に帰るとお仏壇に手を合わせて一日のことを報告し、「おかあさん、本当にあれでよかったの? 他の先生にお願いしたほうがよかったんじゃなかった? もっと楽になれる方法があったかもしれないね」と、悔いの思いが強くなるということでした。

理屈では精いっぱいのことをしたと理解はしていても、人間の情というものが簡単に納得させてくれないようです。
突然の不幸な亡くなり方だったなら、ちゃんと仏さまになっているか、ふと心配になることもあるでしょう。

浄土真宗の教えのありがたいところは、この世のいのちを終えると、阿弥陀如来の本願によって浄土へ往生し、その浄土ですぐさま仏になることができるところです。
仏になるとはさとることです。

この世で人間として生きている間、私たちは煩悩をかかえたままです。
怒ったり腹を立てたり怨(うら)んだりと、そのような感情はその煩悩から起こります。
その煩悩をなくすことが、さとるということです。
仏になるというのはそういうことですから、浄土で仏となられたら、あたたかい慈悲の心で、残された私たちのことを見守ってくださっている存在なのです。

この世にかえる"還相"
阿弥陀如来の本願は、すべてのいのちあるものを救いたいという願いです。
どのような生き方をした人であっても、どのような亡くなり方をした人であっても、そのすべてを受け入れて必ず仏にしたいという願いが私たちを包んでいますから、迷って霊魂のような存在になったり、誰かに祟(たた)ったりすることもありません。
自分のことなら阿弥陀如来によって仏になれたのだから心配はいらない、むしろ残されたみんなのことが心配だと気にかけてくださる存在なのです。

その慈悲のはたらきを、仏の還相(げんそう)のはたらきとして受けとめることができます。
亡くなるとそのまま風となってこの世に留まるのではなく、浄土へ往生して仏となり、そしてこの世の私たちにはたらきかけてくださる。
そのはたらきが、姿は見えないけれど木の葉が揺れることでその存在を感じることのできる風のように、眼には見えないけれど私たちにはたらいてくださることを、心で感じることができるのです。

そのあたたかい心を受けとめて、その気持ちに応えてしっかりとこの世を歩んでいくことが、その心にかなう生き方ではないでしょうか。
悔いの思いも、やがて感謝の思いへと変わっていくことでしょう。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/