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忘れられない温顔 みんなの法話

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忘れられない温顔
本願寺新報2008(平成20)年11月10日号掲載
福岡・徳正寺前住職 武内 英真(たけうち えいしん)
あだ名は"らっきょ"

〝昭和の妙好人〟と仰がれた念仏者に、福岡県出身の「市田楽居(らっきょ)」と名告(なの)られたお方がいらっしゃいました。
本名は市田正氏(まさうじ)さんといいます。

このお方は、小学校の先生として長年勤められ、定年退職後も、直方市内のある女学校の校長先生に就任され、脳いっ血で倒れられるまで、教育一筋に専念してこられた教育者でもありました。

この市田先生が、小学校の教員になられて間もなくの頃、福岡市内の下宿先のご主人から勧められて、たまたま近くの浄土真宗の寺院にお参りされました。
これが、親鸞聖人のみ教えとの最初の出遇(あ)いであり、先生の入信の動機となったのでした。

こうして仏縁が結ばれていったのですが、その頃、この先生に、ある教え子が、あだ名をつけたのだそうです。

そのあだ名は「らっきょ先生」。

どうやら市田先生の頭の格好を〝らっきょう〟ととらえてのあだ名だったようです。


分け隔てなくできない
このあだ名は、たちまちにして、全校生に広がり、先生の耳にも入ってきました。

烈火の如(ごと)く怒られた先生は、その〝名付け親〟を徹底的に調査しました。
やがて、A少年が名付け親だったと判明しました。

このA少年に対して、先生はとことん説教をしたそうです。
しかし、時すでに遅く、「らっきょ先生」の名は、全校に浸透し、今さらどうすることもできませんでした。

二十代の青年教師は悩みました。
本来教育者たるものは、すべての児童を平等に愛し、その成長を分け隔てなく温かく見守っていかなくてはなりません。
なのにA少年に対してだけは、どうしても、そんな心になれなかったのだそうです。

そのような悶々(もんもん)たる心の暗闇を抱きながらも、市田先生の聴聞は続けられていきました。

そして、やがて

「らっきょ先生といわれしわたし、なんぼむいても芯はない―私はらっきょか、その通りらっきょ、らっきょ。
らっきょは皮ばかりで真(しん)がない実がない。
虚仮不実(こけふじつ)にしてまことあることなし。
あるものは、八万四(し)千の皮だらけ、一皮むけば欲の皮、二皮むけば嘘(うそ)の皮、三皮むけば化けの皮...」
との思いに至られました。

教師として、本来愛さねばならぬ教え子を愛し得ぬ心に苦しまれた市田先生の口からこぼれたのが、右の厳しい内省を伴った言葉でした。

このことは、単なる自己反省から出たものではなく、仏智に照らされて明らかになった、自己自身の赤裸々な虚仮不実のありのままの相(すがた)を自覚せしめられたことによるものでした。

怒りが感謝に転じられ
常に煩悩のとりことなり、煩悩の支配を受け、このような煩悩から一歩も解脱(げだつ)することのできない煩悩具足の凡夫であることを、たまたま「らっきょ先生」と名付けられたことによって知らしめられていった市田先生であったのです。

先生を紹介した著述には「純真な学童の眼に映じた市田正氏の人間像は、十劫(じっこう)の昔如来さまの智慧の眼に映った夫(そ)れであった。
...ありがとう。
ようこそ『らっきょ』先生であることを教えてくれました―と、それ以来その生徒が可愛くなり、その生徒への腹立たしさは感謝となり、憎しみは、親しみにと変じたのでありました。
その後、市田正氏先生は、自分は『市田薤(らっきょ)』、後に『市田楽居』と名告っていかれたのでありました」(山田法川著『浄土真宗の人間像―市田楽居先生の微笑』)と記されています。

市田先生は、昭和35年10月に76歳で往生の素懐を遂げられています。

亡くなられる数年前、福岡市内のお住まいで、私も幾たびかお会いさせていただきました。
病のため半身不随の不自由なお体でしたが、終始笑顔で、口からは仏徳讃嘆(ぶっとくさんだん)と仏恩(ぶっとん)報謝のお念仏が常に絶えませんでした。

そんな法悦(ほうえつ)に満ちた市田楽居先生の温顔を、50年経った今でも、私は忘れることができません。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/