病を通しお慈悲を思う みんなの法話
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病を通しお慈悲を思う
本願寺新報2003(平成15)年4月1日号掲載熊本・大法寺住職 大松 龍昭(おおまつ りゅうしょう)いきなり頭痛が襲う現在、三十六歳の私は約三年前、「蜘蛛膜下(くもまっか)出血」という大病に出遇(あ)いました。
脳の動脈の一部に瘤(こぶ)ができてそれが破裂し出血するというもので、年齢にはあまり関係なく、若くして突然亡くなってしまうケースも珍しくないようです。
私の場合は一カ月後に全快できたのですが、このことは私にとって貴重な体験であったと今にして思うことです。
</p>ある夜、いきなり猛烈な頭痛に襲われ、痛みをこらえてなんとか病院に行くと、すぐに病名を告げられました。
翌日、さらに詳しい検査をし、その結果次第で手術を決めるとのこと。
私は「なるほど、症状が軽いときは手術をしなくてもすむんだ」と思ったのですが、本当は「どんな症状であっても、出血の多少やその箇所によっては手の施しようがない場合がある」という意味だったようで、それに気づいたのはずいぶん後のことでした。
</p>検査の結果は手術可能ということで、すぐに七時間ほどの手術を受けました。
意識がいつ戻ったかは定かではありません。
ただ、術後最初に面会したのは母だったと思います。
その母から無事手術が成功したことなど、いろいろと聞かされたのですが、実はその中でとても驚いたことがありました。
</p>涙がこぼれ止まらないそれは「検査が始まる前から、そして手術が終わるまで、何人ものご門徒さんが控え室でお前を見守ってくれていたんだよ」という事実でした。
</p>なぜなら、それは九時間以上という長い時間を意味するわけですから、いくらご門徒というご縁の深い方々とはいえ、肉親でもない私のために、そこまで時間を共にして下さるとは想像もしていなかったのです。
</p>術後も十日間程は激しい頭痛に苦しめられましたが、そんな時このことがなぜか繰り返し繰り返し思い出され、そしてどうしてか涙がこぼれて止まりませんでした。
</p>別にその方々に直接やさしい言葉をかけてもらったわけではないのです。
というより検査の時から術後しばらくまでは面会謝絶でしたから、実は顔すら合わせていません。
ただ、離れた控え室にいて下さっていただけなのです。
しかし...私が本当に苦しんでいた時に、その私の苦しみに一緒に寄り添ってくれていた...ただそれだけがどれほどこの私の痛みを癒し、そしてどれほどこの私の支えになったことかわかりません。
</p>それはきっと、この私の苦しみを共有してくれる人との出遇いによって、この私の命が私だけのものではなかったのだと、有り難くも願われている命であったのだと改めて気づかされたからであろうと私には思えました。
</p>その時、「ああそうか。
阿弥陀仏のお慈悲というのも、このようなことであったのか」と、ふと私の中で感じられたのです。
</p>苦を抜き楽を与える「慈悲」の「慈」とは、すべての者に等しい友情を持つこと。
「悲」とは、すべての者の悲しみを共にする、ということです。
つまり「慈悲」とは、生きとし生ける者すべての痛みや悲しみを我が事のごとく受け止め、そしてまた我が事のごとく共に痛み悲しんで下さる阿弥陀仏のお心、ということでありましょう。
</p>さらに「慈悲」は「抜苦与楽(ばっくよらく)」とも表わされています。
ということは、阿弥陀仏のこの「慈悲」心に出遇えば、私たちの苦しみや悲しみが抜かれ、そして大きな安らぎ(楽)が与えられるということでしょう。
つまり私のこの命が仏にそこまで願われてあるということにほかなりません。
</p>考えてみますと、ご門徒の方々が私の苦しみに寄り添って下さったそのことが、確かに私の中ではまさに「抜苦」であり、そして「与楽」でありました。
</p>それはもちろん阿弥陀仏のお慈悲の世界とは次元の違うものですが、しかし私を見守って下さったその方々が、みな阿弥陀さまとのご縁を深く結んでおられる方々であったことを考えると、少なくとも私には、阿弥陀仏のお慈悲がすなわち「抜苦与楽」と私にはたらいて下さるということの意味を、その方々を通して気づかされたのだと思われてならないのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |