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「祖父の手紙 みんなの法話」の版間の差分

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2009年7月29日 (水) 11:36時点における最新版


祖父の手紙
本願寺新報2004(平成16)年9月10日号掲載
布教使 藤川 顕彰(ふじかわ けんしょう)
失ってからわかるもの

二年前に亡くなった私の祖父は、私が一人暮らしをしていた学生時代に時々手紙を送ってくれていました。
内容はいつも次のようなものでした。

「元気にしていますか。
体には気をつけて。
仕送りは使い込んでいませんか。
封筒の中に少しだけ同封します。
何かおいしい物でも食べてください」

うれしい便りだったのですが、当時の私は、手紙がきたことよりも同封されてくる小遣いを喜んでいました。
祖父が亡くなった今になって、当時の手紙に込められた祖父から私へのあたたかい心を感じます。

日常生活には、このように、なくしてからはじめて見えてくるものがよくあります。

日頃の法務でお話させていただくご年配の方々は、若い私に「いまが一番いい時だね」とよくおっしゃいます。
その方々は、多くの苦労を乗り越えられてきた経験から、「体が衰えて初めて健康であったことの良さがわかった」との深き思いから、「あなたの今が一番だ」とおっしゃるのでしょう。

ただ、いまある幸せを「幸せだ」と当たり前に感じることは本当に難しいものだと最近強く思います。

虫の類にいたるまで
ところで、今年の夏は、自坊の境内で虫取りをする近所の子どもをよく見かけました。
小学生の時は私も虫取りに夢中で、クワガタやカブトムシ、セミなどを捕まえては観察していました。
クワガタは机の上にはなすと必死で机の上を動き回り、そのままほっておけば机から落ちてしまうことがあります。

そこで私はクワガタが机から落ちようとするたびに、指先で「チョンチョン」と突いて、クワガタの動く軌道を机の中央へと変えながら観察していました。
ただ、虫は繰り返して危険な机の隅へと移動しようとしていました。
クワガタには「机から落ちないように私に指で助けてもらっている」という意識はなかったからでしょう。

「諸有(しょう)の人民(にんみん)・蜎飛蠕動(けんぴねんどう)の類(たぐい)、阿弥陀仏の光明を見ざることなきなり」(註釈版聖典341頁)=「あらゆる人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいにいたるまで、阿弥陀仏の光明をみたてまつらないことがない」(現代語版『教行信証』389頁)

生きとし生けるものすべてが如来さまの救いの中にあることを言われているのでしょうが、「蜎飛蠕動の類」(さまざまな虫のたぐい)とは、救いの中にあることを意識できぬこの私のすがたを知らしめているのでしょう。

<pclass="center">(蜎は:虫+絹 の右側)

私の指に助けられていることを知らなかったクワガタと同様、私も自分の意識できぬところで、すでに如来さまの救いの中にあることをいっておられるのです。
その「意識できぬ私」がいま「如来さまのお心」の内でお念仏させていただいていることの素晴らしさを示していらっしゃいます。

「慈」と「悲」のおこころ
「如来さまのお心」は「お慈悲」という言葉で示されますが、多くの先輩方は如来さまを「親さま」と味わってこられました。
そこで味わっていかれたのはいったい親のどんな面なのでしょうか。

私の両親は、まだ布教使としては経験のあさい私を心配してなのか、私がご法座でお話させていただくご縁の数日前には、必ず「当日失敗しないようにね」と声をかけてきます。
しかし、その日の朝になると「失敗してもいいから、思いきって」というのです。
「失敗するな」と「失敗してもいい」という声は、どちらが親の本音なのか。
よくよく考えてみれば、どちらも本音のようです。

「できれば苦しまないでほしい。
ただ、何が起ころうとも私だけはお前の味方であるぞ」という思いからのものでしょう。
多くの先輩方が如来さまを「親さま」と味わっていかれたのは、迷いの中の私を「悲(かな)」しんでおられ、その私を救おうと「慈(いつく)」しまれるという如来さまの二つの本音をいただかれたからでしょう。
ただ、日頃の私にとって「うるさいな、わかっている」と「私のいまの都合」で受け取ってしまうのも親の言葉です。

祖父の手紙の心をいただくご縁を通じて、「相手のいまの心」を聞かせていただければと思います。
お念仏も、如来さまのお慈悲の心をいただいていくことが大切なのだと最近感じています。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/