「いのちの真実 みんなの法話」の版間の差分
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いのちの真実
本願寺新報2006(平成18)年9月1日号掲載
大阪・正福寺住職 林寺 脩明(はやしでらしゅうめい)
一体人間はどうなった
親が子を、子が親を殺(あや)めるという
この恐るべき不自然
頭勝負の欲世界が
自然なるリズムを狂わせている
近頃の世相をみていると、一体人間はどうなってしまったのか、という観です。
冒頭に掲げたのは、最近の私の寺の伝道掲示です。
豊かで便利な過ごしやすい世の中になったはずなのに、どうしてこうなるのでしょうか。
ひと言で言えば、際限のない欲に歯止めが効かなくなってきてしまったということなのでしょう。
先日も、カーブでスピードを落とさなくてもいい新幹線車両が開発され、東京・大阪間が5分短縮されると関係者が自慢げに報じていました。
技術の進歩は認めますが、この5分は人間のいのちにとってどれほど有用なのでしょうか。
少々欲にブレーキをかけて考えてみなければなりません。
親を殺(あや)め、子を殺めた後、どうして生きていくのでしょうか。
人間ならば少し後のことに思いを巡らすだけで当然ブレーキがかかるはずです。
親子が不仲であることはいくらでもあることです。
しかし、長い年月の間に、親の願い、子の思いを感じ取る時が来るに違いないのです。
ところがこの一見豊かで便利な現実に慣れてしまうと、何でもが簡単に手に入ると錯覚します。
いや錯覚でなく手に入るのです。
インターネットを通して殺人までが可能となってしまったのです。
そしてその背後にうごめくものがお金です。
金さえあればの世界です。
「お金を儲(もう)けて何が悪いのですか」と開き直った人物もいましたが、今それをまともに批判できる土壌がありません。
まさに金さえあれば欲しいものが手に入る世界を人間が追い求めてきたのです。
そして格差社会の拡大です。
欲に慣れてしまうと貧に耐える力が失(う)せます。
教育や心の問題なのか
こういう状況によく言われるのが教育が悪いという指摘です。
道徳教育がしっかりとなされていないからだという論です。
が、果たしてそうなのでしょうか。
個人の心がけ、道徳の問題なのでしょうか。
過日、四十年ぶりに教え子の一人が訪ねてきました。
今は学習塾を経営している彼といろいろ教育談義をしましたが、早速に便りをくれました。
《昨日はありがとうございました。
「心なんていい加減なものや」...この言葉は、しばらく僕のテーマになりそうです。
大切なことは『いのち』ウーン...むずかしいです。
またお話を聴かせてください》
仏教は心を問題にしない、心なんか信用しないと私が言ったので彼は驚いたようです。
最近学校の給食で、給食費を払っているのだから、いただきますと手を合わすのは止めてほしいと言った親がいるそうです。
こんな親や子は、心がけが悪いのでしょうか。
「いのち」が教えられていないのです。
「いのちの自然(じねん)」が亡失されているのです。
他のいのちの恵みをいただいての我がいのちです。
いのちにとってそれは喜びでもあり、また悲しみでもある"いただきます"です。
"世のなか安穏あれ"
仏教は「いのちの教育」「いのちの真実」なのです。
心がけが如何様(いかよう)であれ"いただきます"はいのちの真実です。
そのことを説かねばなりません。
本当は説かなくても、自然(じねん)なるいのちはすでに感知しているはずなのです。
この夏、各地を襲った土砂災害も、樹木に備わる自然の保水力の欠落を、人間の都合による多額のお金での造成などがもたらした自然破壊の結末と反省しなければなりません。
自然災害は自然が流す人間への「怨(うら)み涙」なのかもしれません。
親は子を慈しみ、子は親を尊び、たべものの恵みに感謝し、強きものは弱きを助け、などは、人間といういのちの自然(じねん)のはずなのです。
それがいのちの願いなのです。
そうでないといのちは全(まっと)うできないのです。
ところが際限のない欲によって眼(まなこ)が遮(さえぎ)られ、いのちの真実を見えなくしてしまっているのです。
道徳教育や心がけの問題ではないのです。
今こそいのちの真実を伝えなければなりません。
それこそが、「世のなか安穏(あんのん)なれ」への伝道なのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |