「相続するものは? みんなの法話」の版間の差分
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相続するものは?
本願寺新報2007(平成19)年8月10日号掲載
布教使 比賣宮 修三(ひめみや しゅうぞう)
法事の席に孫を集める
近くのお寺のご門徒で、いつも熱心に聞法されているおじいさんから、「家で法事をつとめるので、ご法話に来てほしい」と家庭法座を依頼されました。
ご住職と一緒におうかがいしますと、三十歳前後のお孫さんたちが十七、八人、おそろいで参拝されていました。
なんでも、法事の案内をする時、「みんなにわたしておくものがあるから、孫たちは必ず全員お参りすること」と連絡していたそうです。
ご住職のおつとめが終わった時でした。
おじいさんは「みんなにわたしておくものとはこれだ」といって、私を案内されるのです。
ナント、おじいさんが孫たちにわたしておくものとはこの私、つまりお念仏の法話のことだったのです。
お話を始めようとした時、お孫さんたちの落胆ぶりが見て取れました。
誰も声には出しませんが、当てが外れた、ということでしょう。
八十歳を過ぎたおじいさんから「みんなにわたしておくものがある」と聞いて、おそらく遺産相続に関することだと思い込んでいたのでしょう。
無理もありません。
しかし、それは「遺産相続」ではなく「念仏相続」だったのです。
「たのむ」は祈願と違う
おじいさんの心に感銘を受けた私は「後生(ごしょう)の一大事」について、蓮如上人の「領解文(りょうげもん)」をもとにお話しました。
そして、ご法事が終わり、お斎(とき)の席のことでした。
お酒の力も手伝ってか、お孫さんの一人が私にこんな話をされたのです。
「仏教には○○宗や××宗とかいろいろあるようですけど、結局のところはみんな同じだったんですね!」
「えっ?」と思った私は「どうしてそう思ったのですか」と聞き返しました。
すると「だって、つらいことや苦しいことがあったら、『たすけて』と阿弥陀さんに『たのむ』のがお念仏なんでしょ?」というのです。
lこの方は「領解文」に「後生(ごしょう)、御(おん)たすけ候(そうら)へとたのみまうして候ふ」(註釈版聖典・1227ページ)とあるのを曲解されたのです。
これではせっかくのおじいさんの心が無になってしまうと思い、あらためてお話しました。
人間の好き勝手な欲望を「たのむ」のがお念仏なのではありあせん。
そんな自己中心的な迷いの私を、さとりの世界であるお浄土へ必ず救い取るというのが阿弥陀さまの本願。
その願いが「南無阿弥陀仏」として完成され、今、この私に至り届いているすがたが信心であり、お念仏なのです。
阿弥陀さまのお救い(おたすけ)が間違いない、とご本願のはたらきにおまかせした(たのむ)すがたが他力の安心(あんじん)なのです。
「後生の一大事」とは、ほかに比べるものが全く無い唯一の「大事」です。
すなわち信心をいただくこと、「念仏相続」することがいかに一大事かを、おじいさんはみなさんに伝えられているのです、とお話しました。
自分の写真見てドキッ
それから一カ月が過ぎたある日、おじいさんが私のお寺に訪ねて来られました。
法事の時に撮った写真を記念に届けてくださったのです。
それは参拝者の集合写真ではなく、私の上半身を大きく引き伸ばして額に入れた立派なものでした。
これはありがたいと喜んでいたその時、ふと私の頭の中を黒いリボンがよぎったのです。
法衣姿のその額は、私の葬儀の時にピッタリだ・・・。
喜んだのもつかの間、ドキッとしたのでした。
私には、記念の写真を持ってきてくれたそのおじいさんが、実は「みんなに後生の一大事のお話をしてくれたことはありがたいが、老少不定(ろうしょうふじょう)、あなたも今日とも知らず明日とも知れない身。
あなた自身の後生の一大事はだいじょうぶですか」と言いに来られたような気がしたのです。
もちろん、おじいさん自身はそんなつもりはないでしょう。
しかし「遺産相続」と孫に思わせて「念仏相続」を願われるそのおじいさんのプレゼントに、阿弥陀さまのお救いのはたらきを思わずにはおれませんでした。
還暦を迎え、二十年来のお取り次ぎをしてきましたが、その話の中にはいつも自分自身が抜けていました。
仏法を語っているつもりが、実はこの私のほうがお聴聞をされる方々から反対にお育ていただいていたと知らされた、貴重なご縁でした。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |