「目的周辺です? みんなの法話」の版間の差分
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目的周辺です?
本願寺新報2008(平成20)年5月10日号掲載
本山・布教研究専従職員 郡浦 智明(こうのうら ともあき)
お前さんはここにいる
私がまだ、お経は呪文のようなものだと思っていた子どもの頃、歴史小説に夢中になっていました。
特に、今は亡き司馬遼太郎さんの小説をよく読んでいました。
しかし、中学に入った頃から本を読む機会が減っていき、久しぶりに司馬さんの本を開いたのは大学生の時でした。
レポート提出に追われ悪戦苦闘している時、息抜きのつもりで開いた本の中に、
「仏法とは、いまおまえさんはどこにいると教えてくれる一枚の地図だと思います」
という司馬さんの言葉がありました。
そして、ご自身の戦時中に出兵した時の思い出話が記されてあり、死にたくないという苦悩を、肌身離さず持っていた『歎異抄』の中にある、親鸞聖人の言葉に尋ねていたという当時の体験談も記されていました。
この司馬さんの講演録との出会いによって、私は大学で仏法を学びながらも、どこか遠くに感じていた仏法が、身近に感じられるようになった思いがしました。
とても便利でも不親切
そんな大学生活を終えて自坊へ帰った時、困ったことが一つありました。
月命日のお参りです。
ご門徒の家の場所がわからないのです。
ご近所の場合はなじみもあり、ある程度はわかるのですが、少し遠方になると、住所を聞いただけでは見当もつきません。
お参りはほとんど車で行きます。
車にはカーナビがついています。
これは非常に便利なものですが、不親切に思うこともあります。
目的地の近くまではとても親切ですが、決まって最後が不親切です。
つめたく突き放された思いがします。
「目的地周辺です。
音声ガイドを終了します」
この時、突き放されたような思いをされた方は多いのではないでしょうか。
ご門徒の家が住宅地にある場合はなおさらです。
何十軒もの家の中からご門徒の家をさがすのはたいへんです。
そこで私はカーナビに頼ることをやめました。
では、何を頼りにしているのかというと、それは父が書いてくれる地図です。
本屋さんにあるような精巧な地図ではないのですが、迷いやすいところを重点的にわかりやすくメモが記されている地図です。
「この交差点から三つ目の信号を右折」とか、住宅地であれば「二列目の右端から二つ目の家」であるとか、わかりにくいところは必ずメモが記されているのです。
この地図を助手席に置いて、これを見ながらお参りをしていると、まるで父が助手席に座って案内してくれているような思いになります。
命の目的地記した地図
さて、父が書いてくれた地図が、なぜ私にとって、こんなに心強いのでしょうか。
それは、私が帰郷するずっと前から、私がいま通っている道を、父も通っていたからです。
車でのお参りは、父の代からのことです。
最初はきっと父も道に迷い苦労したことだと思います。
その苦労があるからこそ、前もって私が迷いやすいところがわかるのだと思います。
父の地図は目的地が定まっているだけではなく、その目的地へ一緒に行ってくれる心強い私の依りどころでもあるのです。
司馬遼太郎さんが肌身離さず戦地に持っていかれた『歎異抄』には、親鸞聖人の言葉が記されています。
その親鸞聖人も、いろんなことに苦悩し、ご苦労されたことだと思います。
そんな歩みの中で、「あなたが仏と成らなければ、私は決して仏とは成らない。
必ずあなたを救う」という阿弥陀さまのお心を依りどころとしながら、そのお心を相続してくださった祖師方にお尋ねしながら、仏道を歩まれたご生涯を送られたのでした。
そのご苦労がいろんな言葉となって司馬さんや私にも届いているのです。
そのご苦労が詰まったお聖教(しょうぎょう)は、人生の目的地が定まっている地図です。
また、一緒に歩んでくださるものです。
阿弥陀さまのお心を依りどころにしながら、そのお心を相続してくださった親鸞聖人をはじめ、先人のご苦労を、私の地図として尋ねていきながら、この人生を歩ませていただきたいものです。
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出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |