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「遺弟の念力より成ず みんなの法話」の版間の差分

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2009年7月29日 (水) 11:14時点における最新版


遺弟の念力より成ず
本願寺新報2008(平成20)年10月1日号掲載
埼玉・正善寺教会主管 熊原 博文(くまはら はくぶん)
借家からの都市開教

宗門が推進する都市開教として、私が埼玉県戸田市を開教拠点と定め住まわせていただいてから早15年。
平成7年に開教活動をスタート。
当初の名称は「戸田布教所正善寺」。
借家の1階7畳と6畳(普段は居間)が仏間でした。
また布教所開設記念として、仏教文化講演会を文化会館で開催しました。
案内チラシ3万枚を市内や沿線に新聞折込みなどで配布したものの、参加者は30人弱でした。

しかし、それが、後に初代筆頭総代を務めていただくUさんとの出会いでした。
Uさんは講演会がご縁となり、毎月の法話会に参拝され、一番前に座り聴聞。
80歳を過ぎられ、口数は少ないものの、いつも凛(りん)とされていました。
ずいぶん後になって、大分の中津市出身で、お父上も門徒総代を務められたのだと知りました。


お念仏に生きる力こそ
開設した布教所は、さまざまな形で新たなご縁が広がり、やがて仏間が手狭になってきました。
ある時、意を決しUさんに総代就任の依頼とともに「一人でも多くの人が仏さまのお慈悲を聴聞でき、法要をつとめることのできる草庵本堂を建立したいので力を貸してください」と、お願いしました。
すると、しばらく沈黙の後、「わかりました。
何もできませんが、精いっぱい手伝います」。
そして「私はもう高齢です。
だから私の元気なうちに建てましょう」と笑顔で快諾してくださいました。

早速、土地探しや銀行の借り入れなどなど、積極的に動いてくださいました。
おかげでU総代が牽引力となり、たくさんの方々から物心両面の懇念を得て平成12年、小さいながらも待望の本堂庫裏が完成しました。

U総代と共に感激の涙...。
まさに「専修正行(せんじゅしょうぎょう)の繁昌はまた遺弟(ゆいてい)の念力より成(じょう)ず」(註釈版聖典・1,068ページ)と覚如上人のお示しの如く、すべてのご縁の源流は阿弥陀さま・親鸞聖人のお育てであり、その信心の世界に生きる人々の力によって成就されていくのだと痛感しました。

たくさんの戦友を失い
その2年後、U総代が脳梗塞(こうそく)で倒れました。
病状が落ち着いたとの連絡を受けお見舞いに行くと、戦争で出兵した時の悲惨さを初めて私に話してくださいました。

「たくさんの戦友が私の目の前で死に、私は生きて帰りました。
ここまで頑張れたのは〝申し訳ない〟という思いと、阿弥陀さまのおかげと思います。
なんまんだぶ なんまんだぶ...」

「そうですね。
なんまんだぶなんまんだぶ...」

病室がお念仏でいっぱいになりました。

真面目で、立派で、力強く生きる者を救うというみ教えならば、お互いに救われません。
しかしお慈悲は、人に話すことを躊躇(ちゅうちょ)するほどつらい過去を背負って生きる私に「あなたはあなたのままでいい、何があろうとも必ず救う」と、阿弥陀さまがすべてを見抜き、決して離すことなく、そのまま救い必ず仏に仕上げると誓われました。
その仏願力の功徳のすべてが「南無阿弥陀仏」として成就され、いまこの私に届いています。

U総代はその後、自宅療養となったものの高齢でもあり、病状は悪化していきました。
ある日ご家族から「本人が今、お寺に参りたいと言っているようなので、パジャマのままですがお参りしていいですか?」と連絡がありました。
ご家族に両腕を抱えられ、玄関から本堂の阿弥陀さまの前まで歩むと、急に家族の支えを振り払い、合掌し直立不動のまま「なんまんだぶ なんまんだぶ...ご住職、お寺ができてよかった」と、ひと言ハッキリと言われたのです。

「家族の方のお話と違い、病状は大丈夫だ」と思いつつ隣の部屋でお茶をだすと、今度は何を話されているのか言葉も内容もわからずビックリです。
しかし、私にはうれしく光り輝く尊い姿でした。

救いのすべては阿弥陀さま。
私はご恩報謝の努力の日暮らし。
念仏申す生活のすべてがご報謝。
93年の生涯を歩まれたU総代のお姿は阿弥陀さまのお育てそのものでした。
このようなご縁をいただいた私は幸せ者です。
そして、後から私も同じ浄土に参らせていただいた折りには、その後のお寺の様子をあらためて報告しようなどと心ひそかに思いつつ日々つとめています。
人生の往(ゆ)く先にまた会えるお浄土があってよかったです。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/