「心の光 みんなの法話」の版間の差分
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心の光
本願寺新報2001(平成13)年4月1日号掲載
西河 雅人(にしかわ まさと)(京都・安楽寺衆徒)
見まもられる喜び
ご門徒のおばあさんのTさんが、八十八歳でご往生されてから、三年目の春がやってきました。
Tさんは両目が不自由で、よほど近くまで顔をもっていかないと相手が誰であるのか判りません。
しかし、お寺とご門徒の法座には必ずといっていいほど、ご主人に手を引かれながら参っておられました。
ご法座では一番前に座り、お念仏をしながら「有り難うございます、有り難うございます」と何度もくりかえされるので、特に印象深いお同行さんでしたが、それだけではありません。
私にとって、Tさんには忘れられない思い出があるのです。
Tさんが亡くなる三年前の春、私に教えてくださった言葉は、今でも鮮明におぼえています。
それは四月下旬のある暖かな日、私は月忌(がっき)参りの途中で、お寺の門前の石に座って、日なたぼっこをされているTさんの姿を見つけました。
近くにご主人がおられないので一人で散歩かなと思いそばまで行くと、私の衣姿に気づかれて、「ご院さん、お勤めご苦労さんですなあ」と声をかけてこられました。
私を住職である父と間違えておられるのです。
「おばあさん、私は住職と違います、後住ですよ」と返事すると、「ああそうか、ごめんなあ。
目がよう見えへんからなあ」と照れ笑い。
そして、続けて、「若さん、私は目が不自由やから、一番前に座ってもお仏壇の阿弥陀さんは見えへん。
そやけど嬉(うれ)しいことに、私が見えんでも、阿弥陀さんはいつでも私のことをちゃんと見てくれたはりますでなあ」と、何とも穏やかな顔で言われました。
何気ない言葉であったにもかかわらず、その一言は強い衝撃となって私の心に突きささりました。
摂(おさ)め取って捨てない
「正信偈」に、「摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、つねに照護(しょうご)したまふ。
すでによく無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)すといへども、貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、つねに真実信心の天に覆(おお)へり。
たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇(やみ)なきがごとし」(註釈版聖典203頁)というご文があります。
親鸞聖人は、念仏者を摂(おさ)め取って捨てないという阿弥陀如来の救いのはたらきを、「心光」という言葉で度々用いられています。
通常、私たちは自分の目で外界の事物を見ていると思っていますが、よく考えてみると、光が全くない暗闇では、いくら視力がよくても目の前に突きだされた指先すら見ることができません。
実は見ているのではなく、光によって見させてもらっているのです。
それでは心にはたらく光とはいったい何でしょう。
例えば「心が明るくなった」という表現がありますが、これは日光や電灯のような物理的な光の明るさではなく、心に安心感を与えられた状態をあらわしています。
親鸞聖人が言われる「心光」とは、「いつでも、どこでも、つねに護(まも)ってくださる」という如来の救いを、衆生の煩悩の暗闇に躍動する光に喩(たと)えられたものなのです。
にもかかわらず、私たちにはその光をありのままに受けとめることが非常に難しいのです。
ご信心をいただいたならば、胸のなかの煩悩の闇がすっきりと晴れて、苦しみ悩みから解放されると期待しても、それはなかなか難しいことなのです。
長い間聴聞し、念仏を称(とな)えているのに愛憎の想いは泉のように湧きだし、こんなことではまだまだ聴聞が足りないと思い悩む人は多いのではないでしょうか。
この「正信偈」のご文(もん)はその疑問について明瞭に答えておられます。
光を受けるいのち
私の住む京都府中南部は霧の多い所で、冬期には毎日のように濃霧のため午前中は薄暗く、太陽の位置さえわかりません。
しかし全くの暗闇ではなく明るさはあります。
「雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」とは、聴聞させていただいたおかげで、如来のご本願に対する疑いの闇がすっきりと晴れたなら、無明煩悩が往生の障害になることはないと言われているのです。
ご信心をいただくということは、決して煩悩から解放されることではなく、煩悩を持つ身のままで、阿弥陀如来の摂め取って捨てないという摂取の光に包まれて生活させていただけるということを、日々実感していくことではないでしょうか。
それは「つねに照護したまふ」と言われるように、たとえ心身の苦しみに打ちのめされている時であっても、救いの腕に抱きとめられているのです。
今年のご正忌報恩講で、ご門主はご法話のなかで、「私のいのちは、私のもの、私物ではなくて、阿弥陀如来さまの光を受けるいのちであります」と述べられています。
親鸞聖人が実際に触れられた、阿弥陀如来の救いのはたらきである「心光」を、私の心のなかに実感できることを教えてくださったのがTさんの言葉でした。
それも、あまりにも日常的なありふれた会話のなかで聞かせていただいたことが何より嬉しく、心にいつも響いています。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |