「阿弥陀さまの願い みんなの法話」の版間の差分
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阿弥陀さまの願い
本願寺新報2001(平成13)年10月1日号掲載
佐々木義英(ささき ぎえい)(聖典編纂専門委員)
忙しい私たち
え.秋元裕美子
この頃、公衆電話の数が極端に少なくなりました。
それだけ携帯電話が普及したのでしょう。
街では歩きながら電話をする人を見かけます。
四、五年前までは考えられなかった光景ですが、今では日常となりつつあります。
最近は携帯電話の使用マナーが取りざたされていますが、いつでもどこでもかけることのできる電話は、また、どんな時でもどこに居てもかかってくるということです。
便利さの影にビジネスやプライベートといったことが混在するという事態が生じているのです。
携帯電話の普及ということ一つとってみても、めまぐるしく移り変わる現代社会の中にあって、私たちは抱えきれない程の情報に押し潰(つぶ)されそうになりながら、慌ただしく毎日を過ごしています。
まして人生の帰趨(きすう)がどこにあるのかなどと考える暇などありません。
むしろこのようなことをいっていたら時代に乗り遅れるかのようにいわれます。
誰もが先を急ぐようにして生きていますが、一体、何を求めているのでしょうか。
釈尊ご在世の頃と比べれば、生活環境は数倍、いや数百倍も向上したかもしれません。
しかしだからといって、私たちも何らかのかたちで成長しているのでしょうか。
『大経』の言葉
ここで『大経』の一節をご紹介します。
「世間の人々は善い行いをしようとせず、互いに次々と人をそそのかして、さまざまな悪を犯している。
二枚舌を使い、人の悪口をいい、嘘をつき、言葉を飾りへつらって、人を傷つけ争いを起すのである。
あるいは善人をねたみ賢いものをおとしめて、自分は陰にまわって喜んでいる。
また両親に孝行をせず、恩師や先輩を軽んじ、友人に信用なく、何ごとにも誠実さを欠いている。
しかも自分自身は尊大に構えて、自分ひとりが正しいと思い、むやみに威張って人を侮(あなど)り、自分の誤りを知らずに、悪を犯して恥じることがない。
また自分の力を誇って、人が敬い恐れることを望むというありさまである」「心のとびらを固く閉(とざ)して少しも智慧の眼(まなこ)を開こうとしない。
そして、いよいよこの世の命が終わろうとするとき心に悔いと恐れがかわるがわる起きるのである」(現代語版『浄土三部経122頁』
いかがですか。
『大経』の言葉が、今のこの私に切々と訴えかけています。
私たちは、この世に生をうけてから、知らず知らずのうちに、眼を外に向け、外にあるものに対して自分をかばうように生きています。
ときには人を傷つけたり、人の心を踏みにじるようなことも平気でしてしまいます。
多忙な生活に身を任せ、先のことばかり考えて生きていこうとするのは、自分のことを棚上げにして外へ外へと眼を向けようとする、この私の思い上がりと考えた方がよいでしょう。
これが現実の私の姿であると気づくのは、いつなのでしょうか。
今、この時でなければ、もはや明日ということはありません。
「常」と「恒」
親鸞聖人の『一念多念証文』というお聖教(しょうぎょう)に、「常(じょう)」の字について「どのような時も絶えることがなく、またどのような所も避けたり嫌ったりすることがないのを常というのである」(現代語版『一念多念証文』3ページ)とあります。
これは阿弥陀さまのはたらきが「絶え間ない」ことを述べられたところです。
また「恒(ごう)」の字について「つねにというのは、絶えることがないという意味であるが、折にふれ、その時々に願えというのである」とあります、これは私たちがご法縁の「折々に」お念仏申していることを述べられたところです。
日々の生活に追われ、お念仏を口にすることができない私であるけれども、そのような私を目当てに阿弥陀さまはいらしてくださるということです。
気の向いたときにしかお念仏を申すことができない、危うい心の持ち主である私であるからこそ、阿弥陀さまは「常に」この私を見守っていてくださるのです。
親鸞聖人は、お念仏を通してそのようなわが身を顧みるという生活が大切であるとお示しくださっています。
甲斐和里子さんの歌に「御(み)仏をよぶわがこゑは御仏のわれをよびます御声なりけり」(『草かご』)というのがあります。
たまたま私が申した念仏でありながら、私の口をついて出てくださったお念仏は、いつも私を念じてくださっている阿弥陀さまであったということでしょう。
「南無阿弥陀仏」の六字には、この私に気づいてくれよという阿弥陀さまの願い、私たちに念仏申させたいという阿弥陀さまのお心、お念仏を申させていただくところには、摂(おさ)め取らずにはおかないという阿弥陀さまの願いにかなったはたらきがあることを忘れてはなりません。
私が手を合わせているつもりでも、阿弥陀さまは常に私に向かって手を合わせていてくださっているのです。
お念仏を申すたび、わが身を振り返り、人生の帰趨というものを阿弥陀さまの浄土に見据(す)え、お念仏の中に生活をしていくということこそ、阿弥陀さまの本願にかなった生き方であろうと思います。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |