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「自分を捨てないこと みんなの法話」の版間の差分

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2009年7月29日 (水) 11:44時点における最新版


自分を捨てないこと
本願寺新報2002(平成14)年12月1日号掲載
広島・最広寺衆徒 中村 英龍(なかむら えいりゅう)
不良なんかじゃない!

「私は、決して自分からけんかをしかけたことはなかったんです。
ただ、攻めてくる者には自分で身を守るしかなかった。
それが世間から見れば、ただの不良に見えたんでしょう」

今は家庭に恵まれ、設計技師の仕事をしているその人は、小学生の頃、家庭の事情で両親と離れて暮らすようになってから、まわりの子どもたちからいじめに遭(あ)う日々を送っていました。

「どうして、お前のとこ、お父さんもお母さんもいないんだ!」

そう、からかわれる少年の心には、怒りと情けなさが入りまじるなか、彼はそれでも必死に抵抗して幼い身を守っていたのでしょう。

「私はあの頃、ただ自分の身を守っていただけなんですよ」

けんかの絶えない日々が続くうちに、世間の大人たちから「不良」というレッテルを貼られてしまった彼は、今ふりかえると、自分はただ懸命に生きようとしていただけなのに、「あの子は、もともと不良になるような子なんだ」という目で見られることが、一番つらかったと語りました。

仏弟子アングリマーラ
私は、彼の顔が浮かぶたびに「アングリマーラ」の仏教説話を思い出します。

アングリマーラという人物は、師匠であるバラモンから邪(よこしま)な教えを授けられ、千人の人間を殺して指を切り取って、それを髪飾りにしようとしていました。
ちょうどあと一人で千人というところでお釈迦さまに諭(さと)され、彼は仏弟子になりますが、殺人鬼が釈尊の弟子になったということで街はおおさわぎになり、弟子となったのちも彼は民衆の暴行にさらされます。

しかし、仏弟子として生まれ変わったアングリマーラは、甘んじてその迫害を受け続けます。
懺悔(さんげ)の生活を続ける彼に、やがて民衆の彼を見る目も変わり、ついに彼は悟(さと)りを得ることができたという話です。

さて、この話から私はいつも、この説話が罪を犯した者にもそこに必ず道は開かれているというメッセージである以上に、罪を犯した者よりも実は罪を犯した者を見る私たちのあり方を問題にしているのではないかと考えさせられます。

暴行を受け続けるアングリマーラは、幾度も絶望に追い込まれたことでしょう。
大きな罪を犯したとはいえ、その苦悩は私たちの想像を絶します。
そして境遇はちがいますが、いじめを受け、世間から冷たい視線で見られた彼もまた、このアングリマーラと同じくらい心のなかで「自分をわかってほしい」と叫んでいたのかも知れません。

今、私たちは、果たして本当に世の中を正しく見ることができているでしょうか。

仏法は世の光なり
あるご法話で「人間の目はみな借光眼だ」という話を聞いたことがあります。
私たちは、日の光や電気の明かりを通さなければ何も見えません。
それと同様に、心の目も光を借りなければ本当のものは何も見えてこないと教えていただきました。

自分で見ているつもりが、実は光に照らされて見せていただいていたのです。
私たちの持つ心の目も、またそれと同じなのです。

親鸞聖人は、「煩悩障眼(ぼんのうしょうげん)」(『尊号真像銘文』・註釈版聖典662頁)という言葉をもって、私たち人間の眼を煩悩に覆われた目であると示されています。
それは、仏法という光に照らされた親鸞聖人のお味わいです。

正しくものごとを見ることのできない私たちは、光に遇(あ)うことがなければ、それが煩悩にさえぎられたものであることを知らないままに、どこまでも人や自分をかたよった見方で判断していくでしょう。
光に遇い、私という人間を深く反省していくあり方が、お互いに心安らかな一日を送る第一歩につながっていくのではないでしょうか。

また、このお言葉の次には、仏法という光は「摂取不捨(せっしゅふしゃ)の心光(しんこう)」(同664頁)であるとの聖人のお味わいがあります。
仏法を聞いていく者を常に照らしまもるはたらきが、今ここに届いていることを、私たちは忘れてはならないでしょう。
真宗のみ教えを聞くお聴聞の場は、実は闇に閉ざされた私たちが、共に光に出遇うための場であったと、あらためて気付かされます。

少年の頃の話をしてくれた彼は、高校二年生のときに学校を中退してしまいますが、ある大工さんとの出会いがきっかけで、設計技師という人生の目標を持つことができたのだそうです。
そして最後に「大事なのは、自分を捨ててしまわないことだとわかりました」と、彼が語ってくれたことが、今でも私の頭から離れません。
人生における一つの出会いが心の光となって、彼に設計技師という大きな目標を見いださせたのです。

「自分を捨ててしまわないこと」―そんな彼のひと言が「摂(おさ)め取って捨てない」という阿弥陀さまのよび声のように私の心に響いてきます。
そのよび声を、どこまでも阿弥陀さまがこの私のためにかけられた願いであったと聞いていくところに真宗のお聴聞があり、その願いが今、私たちのもとに「摂取不捨の心光」として届いて下さっているのです。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/